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「……名字、家まで送ったるわ 用意し」

危ないからと送ってもらうほど遅い時間でもないし、普段の通学手段は電車だし、家は駅からほど近いし。わざわざケチの渡邊先生が価格高騰冷めやらぬガソリン代を費やしてまで私を送る理由が見当たらない。むしろ、一人でトボトボ帰らせてほしい気分。空気読めないなあ、先生。大人のくせに。でも、啜り泣くわたしの両耳に廊下から落とされた落ち着いたその声は唯一はっきりと大人を象徴しているようで、それだからか、そうでないのか、断われなかった。先生が席を立った時に、子供の私の小さな心臓に悲しみが際立ったのは秘密だけど、その言葉にほっとしたのは確かである。

私の志望校は少しレベルの高い学校だった。けれど推薦の時点で合格が決まったわたしはみんなより一足早く焦りから解放されて、残すはもう無事に卒業するだけとなった。肩の荷が降りた途端、今までの頭で整理しきれなかったバタつきが消えていく。そうしたらあとはただひとつ、やらなきゃいけないことに気が付いたのだ。

子供の一時の好奇心だとでも思われたのだろうか。そうだとしても仕方がないほど、わたしは幼く、先生は大人だ。掌の大きさが同じ女である筈の国語の先生より何だか小さかったり、ヒールに憧れてみたり、ちょっと謎めいた格好良い先生に憧れてみたり?そんな『こども』?
切なく触れた自分の指先が冷たくて、これがもし先生の少しかさついた硬い指だったらなあなんて虚しいことを考える。立ち上がって、スクールバッグを持ち上げて、先生の背中を追いかけるこの動作には覚えがあった。けれどそんないつかの浮かれた気持ちとは全く違う、今のこの靄の掛かったような感情。それは知らない、初めての感覚で。
子供だから、近づこうとしちゃ、いけなかったのかなあ。そんなことをふと、僅かでも思ってしまうとバカみたいに溢れてくる涙に呼吸がつまる。先生はもう廊下の先を歩いていて、やがて角を曲れば私から見えなくなってしまう。よく知っている筈の廊下は、その角を曲れば下の階へと続く階段で、そうしたら先生は職員玄関に向かう。振り返って、「靴履き替えといでや」って、いつも笑ってるように見えていたわからない表情で言うんだろう。その行き先を知っているのに、その行き先は今だけは私と一緒なのに。先生は遠くて知らない所に行ってしまうんだと思って。泣いていたせいで未だに落ち着かない心臓に無理をかけて走った。


先生は階段を降りながら私が予想した言葉をそのまま並べたものかららしくないなと思った。いつでも私の想像、予想、妄想通りには笑ってくれない先生のくせに。こんな時ばっかり。黙って先生の背中に頷いて靴を取りに歩いた。ゆっくりでええぞと、後ろで伸びた声。振り向いてぎこちなく笑うと、先生はまた、あのよくわかならない表情をしていた。


先生の車の中は先生の匂いがしてて、その中にいつもよりもきつい煙草の匂いと、僅かないい匂いがした。だれのにおいかなあ、とか、気にしてないふり。今度香水を買いに行こう。お年玉をもらって間もないから、まだまだお財布は潤っている。いつか大人っぽいブランド財布を鞄に沈めて、今までコットンに馴染ませたテスターの匂いしか体験したことのないような、少しだけ遠かったその世界のキラキラした瓶の中身の魔法みたいにいい匂いを漂わせる液体をひと吹き首元に纏わせれば、わたしも先生の車の助手席シートに何か残せるのだろうか。すぐに誰かの匂いで消え失せてしまうような、私みたいな匂いだろうか。

いつの間にか俯いて涙を堪えていた。缶コーヒーを啜った先生がポツリと言葉を落とす。安っぽい苦い匂いが車内に充満する。わたしが飲めない、ブラックコーヒー。


「ちょっと大人すぎたんやな、先生が」

「……そ だよ、先生がわるいんだよ」

「おん、堪忍な」

「泣かされたもん、 ゆるせないよ、まだ」

「おー…、ええよ。いつか許してな」

「…いいよ、私が、大人に、なったら、ね、」

「おん、ありがとな」



そうやってひとつずつ会話をしながら落ちていく涙を眺めていた。次第に詰っていく言葉たち。明日にはすこし大人になるし、明後日にはそのまた少し大人になるし。暫くしたらきらめくボトルの香水なんか買っちゃって、そうしたらもー直ぐに彼氏とかできちゃって、ブラックコーヒーを飲んでみたりして。そんなのかなあ。なんかそれじゃあ違う気がして、また大人から遠くなった気がしちゃったりして。




おとなをしらない大人
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