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無音。と言う名の音が耳をつんざく。冷蔵庫や暖房器具の唸り声が、彼が煙草のけむりを浮かす何もかもに無関心な音が、隣の住人を気にして小さな音で騒ぐテレビの音が、私が鼻をすする抑えた音が、すべてが混ざりあって、ひとつの音になる。無数の色を混ぜ合わせると黒くなってゆくように、そんな風に。そんな中でただひとつ、頬の真新しい痛みがじんじんと、その無音だけが音を立てているように感じた。
裕次郎の懐っこい笑顔がもう思い出せない。時に少年のように無垢に輝いていたあの瞳は夢か何かだったのか。
裕次郎が煙草の煙を揺らしながら、ふと緩慢な動きでこちらを見やる。久しぶりに目があったような気がした。それだけで希望が揺れる。けれど、その瞳に明るさなんてなかった。まだ煙草の箱の中に何本残っているのだろう。彼のペースは昔よりずっと早くなっているし、わかるはずもないけれど。


「あー」
「、……」
「…なちゅんさんけー。うざい」


途端に、指の先から冷えるような、悲しさとか恐怖とか、そういう感情で覆われる。泣くなと言われたのに涙がまた溢れた。少しずつ収まってきていたはずなのに、枯れることも知らず、ぼたぼたと音を立てて。もういやだ、目を合わせていたくない。見られたくない。こわい。逃げ出してしまいたい。けれど、離れたくない。離さないでほしい、と言うのは手遅れなのだろうか。こんなことを考えてしまうところが一番、手遅れなところなのかもしれないけれど。
テレビのチカチカと眩しい光と裕次郎の煙草の先端の明るさだけが薄く、電気もついていない部屋を照らしていた。狭いアパートの一室では、限界まで距離をとっても全ての音が聞こえてきて、それがまた空しさを煽った。出ていくという選択肢もあるけれど、どこに行けばいいのかもわからなくて。結局この家を帰る場所だと思ってしまっていることが救いようのないバカだと思う。それだけはたぶん、彼も同じことだけど。

いつからこうなったのか、わからなくて、だから悲しい。付き合って三ヶ月でプロポーズをされた。親に同意をもらうだけもらって入籍して、式を挙げて、安いアパートを借りて、笑顔で。なのに、いつから。わからない。皿が割れる前からごく小さなヒビを少しずつ拡げているように。小さな喧嘩がだんだん増えて、些細なきっかけで嫌味を言い合ったりして、けれど仲直りを繰り返して、その度に絆とかそんな勘違いを繰り返していた。いつからか裕次郎の手が上がるようになって、それでもまた仲直りを繰り返して。少しずつ彼の暴力から手加減が薄れていって、その頃には戻れない闇に潜ってしまっていると気付いていた。もうどんなに光を手繰り寄せても。二人の瞳は濁ったまま。


「なまえ」


無音に響くのはいつもこの声だった。


「ゆ、………ゆうじろ…」

「なまえ、なまえ、ごめんなあ、…おれ、本当に…、……腫れて…、痛かったや?」


優しくて悲しくてたまらない声。慈愛のように感じる、戻れない闇の中の、届かない光を諦めて近くに幻を見るようになった。彼という、濁っているけど、幻だけど、私だけの、弱くて優しい光。それはいつも喧嘩のあとの煙草がなくなると、煙草の小さな明かりの代わりのように微かに灯るのだ。それを知っているから、逃げだせないのだろうか。逃げ出せないことを知っていて、彼はその光を灯すのだろうか。


「ううん、大丈夫、痛かったけど、大丈夫なんだよ」


この弱い光がまた途切れる時、私達はまた壊れていくけれど。
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