(day of the week様提出/死ネタ)



彼女と初めて出会ったのはある日の週末の昼下がりだった。

「初めまして、キルアくん」

そう言って差し出された左手の白さと春先の弱々しい淡い日差しの中、柔らかな微笑が溶け入りそうなくらい綺麗だったのを今でも鮮明に憶えている。
長兄の婚約者と紹介されたこの女性の心臓は、紛うことなくイルミの為だけに動いていた。まだ腹の中から這い出る前、それこそ母の胎内で性別が決まったその日からゾルディック家の長男の婚約者と定められ、産まれ出た後にはゾルディック家に嫁ぐものとして恥がない様に、思想、容姿、仕草、態度、マナー、技術、それこそ天辺から爪の先まで教育されていた。
長兄より3つ歳が下のこの婚約者は正真正銘、彼の為だけに作られた存在であった。産まれた時からその手中に収まると定まった彼女を、所有者であるイルミは興味が無さそうな淡々とした眼差しで見ているだけだった。




花嫁修行、母がそう称して彼女がゾルディックの屋敷に住み始めて暫く経った。
特に大きな問題は無かった様に思える。母は綺麗な容姿をした長男の婚約者を気に入っていたし、父や祖父は与えられた仕事を手早く、そして完璧にこなす彼女に相応の評価を与えていた。ミルキは彼女の存在に多少嫌な顔をしたがある一定以上、不用意に踏み込んで来ない婚約者の態度(配慮かもしれない)を見て次第にそれも無くなった。カルトも初めは「母を盗られた」とよく嫌な顔をしていたが、彼女に絆されたのか現在はそれも無くなったらしく、先日は仲良く一緒に折り鶴をしている姿を見た。
自分も彼女が嫌いじゃなかった。

「おかえり、キルアくん。よく頑張ったね」

彼女はそう言って仕事帰りに優しく出迎えては頭を撫でてくれた。白磁の様な綺麗な手が自分の癖のある銀髪に触れる感覚が妙に擽ったく、照れ臭かったが心地好かった。優しく、真綿で包まれる様な感覚。暖かなそれは今までの彼の人生に存在しない暖かなものだった。そう、さして大きな問題なんて無かったのだ。少なくとも、キルアの目からはそう見えた。彼女の一番の目的で、人生の要と言っても過言ではない長兄が、彼女に対し見向きもしていなかったことなど、キルアはさしたる問題だとは捉えなかった。捉えないようにしていた。

「イル兄のどこが好きなの?」

キルアは胸の内にあった幼い疑問を彼女に投げ掛けたことがある。いつのことだっただろうか。確か彼女との暗殺の仕事が終わった後、世界的に有名な某ファーストフードのチェーン店で食事を摂っていた時のことだった気がする。当時はあまり口にする機会の無かったファーストフードのハンバーガーを羨ましそうに眺めていたらナマエは「お義母様達には内緒ね」と悪戯っぽく笑いながらこっそり寄ってくれたのだ。
確か自分ハンバーガーのケチャップを頬に付けつつ、先程の疑問を口にすれば彼女は優しく微笑んで迷いもなく答えた。

「全部好きよ」
「え、全部?」
「うん」
「嘘だー」
「本当だよ。私はイルミさんの全部が好き。大好きなの」

頬を薄紅に染めて愛嬌の滲む柔らかい笑みを浮かべて彼女はそう言った。いつもと変わらないその笑みの奥にはいつもとは違う真剣な色を宿しており、子供ながら彼女の長兄に対する愛情は本物なのだということを理解した。
だがこの時点で自分は気づけばよかったのだ。彼女の中に宿る長兄への愛情が彼女の意思では無く、周りから意図的に造り上げられたものであり、彼女の命はイルミ=ゾルディックを愛し、愛され、その血を繋ぐ為だけに存在するのだということを。
しかし当時のキルアはそのことに全く気がつくことが出来ないまま、子供特有の無邪気で残酷な一言を容赦無く口にしたのだ。

「でもイル兄はナマエのことあんまり好きじゃないよなー。好きじゃないっていうか、興味無いって感じ?」

この自分の無神経な一言に一瞬だけ、彼女の瞳が大きく揺れたのをキルアはよく憶えていた。
冷たい兄なんかを一途に慕い続ける、自分の大好きなナマエへの小さな嫉妬心から放ったほんの少しの意地悪のつもりだったこの一言。彼女にとって認めたくもないであろう現実をはっきりと突き付けたこの一言は、どれだけ彼女の胸の柔らかいところを深く抉ったのだろう。

「そうだね。イルミさんは私に興味無いよね」

彼女は淡々と、そう言って笑う。いつも通りの儚く、柔らかな笑み。それが作り笑いだということは幼かったキルアにも直ぐにわかった。

「でもね、それはきっと私が悪いから…、私に至らないところがあるからなんだよ。だからイルミさんに好きになって貰えるよう、もっと頑張らなきゃ」

キルアに対して、というより宛ら自己暗示の様に呟かれた一言。それを聞いたところで漸く、キルアは自分が何かしてはならない過ちを犯したことに気付いた。
嫌な予感が彼の心臓の鼓動を速めていく。彼女を見れば先程の話題はもう終わったと言わんばかりに注文したハンバーガーをもぐもぐと齧りつつ「美味しいね」なんて暢気に微笑んでいた。その微笑を見てキルアは先程の嫌な予感は杞憂に過ぎないものだと僅かに安堵する。それでも一度過った最悪な予感は脳裏にこびりついたまま見ない振りをしていた。




ナマエが花嫁修行と称してゾルディック家に住み込んでから半年以上の月日が経った。ゾルディック家の嫁としての資質も素養も問題は無く、家族との仲も良好ともあり「もう結婚させちゃいましょうか」と母の一声でイルミとナマエの結婚は決まった。式の日取りを決めた後の屋敷はやけに騒がしかったのを憶えている。ドレスがどうだの指輪がああだの花はこうだのと朝から晩まで母が式の指示をしたりナマエやイルミが連れ回されたりと大忙しだった。どうせ自分達とナマエ側の家族しか出席しない身内だけの結婚式だというのに何故こんなに張り切るのだ、と母の前でうっかり溢せば甲高い声で結婚は女性の人生一番の晴れ舞台だなんだの説教された。勿論途中で逃げたが。

「森に鍛練に行ってきますね」

ある朝そう言って彼女は屋敷を出た。女とはいえ、ゾルディック家に嫁いでくる者ならある一定の強さは無ければならない。勿論彼女も例に漏れず、朝は毎日森や室内の訓練場に行き、その洗練された技術の維持、或いはその先へと踏み込むための鍛練をしていた。結婚式が近かったその日も例外では無く、彼女は朝早くから日課の鍛練をしに樹海へと出掛けていった。
しかし今日は少し様子がおかしかった。いつもなら昼前には帰ってくるナマエが今日は昼過ぎになっても帰ってこない。心配になった母が執事を樹海に向かわせようとしたがキルアはそれを制止し、「自分が探しに行く」と申し出て森に向かった。
屋敷の裏にある樹海。人の手が殆ど入っていないそこはゾルディック家の私有地で無ければ国の自然遺産に登録されていてもおかしくのない程自然に溢れ、慣れていないものなら確実に遭難する程入り組んだ天然の迷宮になっていた。ナマエはどこだろう。何かあったのだろうか。そう考えながら森の木から木へと跳び移り、周りの気配を探りながらナマエを探した。

「あ、いた」

彼女の気配や通った痕跡を探り、長い時間を掛けて漸くナマエを見付けた。森の最奥付近に生えた大木の枝の上で彼女は膝に顔を埋めて座り込んでいた。怪我でもして動けなくなったのだろうか、そう思いながらキルアは彼女の座り込む木の枝へと跳び移る。

「ナマエ」

どうしたの?そう紡ごうとした言葉はゆっくりと上げられた彼女の顔を見た瞬間にそのまま音を成さずに飲み込まれる。ナマエは泣いていた。彼女は声も出さずに、肩を震わせて独りで踞って静かに涙を溢していたのだ。思わず目を見開いて硬直するキルアに彼女は再び膝に顔を埋めて、涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠してそのまま黙り込む。我に返ったキルアは浮かんだ疑問をそのままナマエにぶつけた。

「……あのさ、何で泣いてるの?」
「……」
「…イル兄と何かあった?」
「っ、!」

イルミの名前を出した途端、彼女の肩がびくりと大きく震えた。どうやら図星らしい。キルアは膝に顔を埋めたままの彼女の隣に腰掛け、そのまま慰める様に言葉を掛けた。

「何かあったんならさ、誰にも言わないから…えっと…」

動揺してしまって上手く言葉が纏まらない。だがキルアの言いたいことを理解したのかナマエはゆっくりと顔を上げた。赤くなって潤んだ瞳からは止まることを知らない様にぽろぽろと涙が零れ、頬を伝って服の襟元を濡らす。何度も自身で涙を拭ったのだろうか。よく見ると目尻赤く、彼女の長袖の白いブラウスの袖口は濡れて淡く肌を透かしていた。
キルアは改めて彼女を見詰め、思わず息を飲んだ。ナマエが涙を溢す姿は長時間、感情的に泣いていたとは思えない程綺麗で、さながら涙の溢し方さえ正しく躾られ、造られてしまったかの様な人工的な美しさがあった。目の前のこの女性は、涙の溢し方すら自由を与えられていないのだとキルアは無意識に悟ってしまった。

「……イルミさん、私に興味が無いの」

涙混じりにポツポツと、小さく吐き出された言葉。いつだったか、キルアが悪戯混じりに言った事実を彼女はそっと告げる。

「私には、イルミさんしかいないの、イルミさんは違う。イルミさんは私何かどうでもいいの。イルミさんは、私じゃなくてもいいの。イルミさんは、イルミさんは…、」

愛しい男の名で彩られた言葉。再び膝に顔を埋めて泣き出した彼女をキルアはただその姿を眺めていることしか出来ない。
イルミに気に入られ、愛される為だけに育てられたナマエ。
そんな彼女へのイルミの「興味が無い」という態度はどれだけ彼女の意識や存在理由を揺るがしたのだろう。好意も嫌悪も無い、ただただ冷たい無関心。イルミには彼女の存在などあっても無くても同じだったのだ。
きっと真綿で首を絞められる様な心地だったのだろう。好かれも嫌われもしない、居ても居なくても同じ。
好かれたのならそのまま添い遂げればいい。嫌われたのなら(相応の罰は用意されているだろうが)実家に帰ればいい。でもそのどちらにも当て嵌まらない状態の中、彼女は酷く苦しんだ。
必要とされていないのに傍に居るのは辛く、邪険に扱われてもいないから逃げることも出来ない。淡々と繰り返される冷めた毎日の中、彼女の精神は不安という圧力に耐え切れずとうとう根を上げたのだろう。この深い森の奥で彼女は誰に頼ることもなく、密やかに涙を溢していたのだ。
キルアはそっと手を伸ばし、その小さな掌を彼女の髪に優しく滑らせた。いつも彼女が自分にやってくれるのを真似る様に、優しく慈しみを込めて、ただ慰める様にナマエの頭を撫でる。

「大丈夫だって。イル兄だってナマエのこと、好きだよ。ただ、ナマエが美人だから照れてるだけだろ」

我ながら下手くそな嘘だと思った。もっとマシな言葉はあるだろ。あのイルミが照れるって何だ、想像すら出来ないぞ。頭の中で自分が吐いた言葉にひたすら突っ込みを入れる。しくじった、こんなんじゃ慰めにならない。そうキルアが思っていれば不意にナマエが膝に埋めていた顔を上げた。

「ありがとう、キルアくん」

優しいね。そう言って彼女は少し笑った。涙はまだ止まっていなかったけれど、彼女の顔に浮かんだ笑みは作り物では無い心からの笑顔だった。
思わず照れ臭くなったキルアは、熱が灯っていく頬を隠す様に思い切り逸らす。ナマエはそんなキルアを見て小さな笑い声を漏らしてはお返しと言わんばかりにキルアの銀糸の猫っ毛を撫でた。いつもの暖かく、優しい掌に思わず安堵しつつも先程の話題を逸らす様にキルアは何の脈絡も無く世間話を始めた。「今日の昼食はなんだろうか」とか「昨日見たアニメは面白かった」ぐらいのくだらない雑談を彼女の涙が引くまでしていた。

「変なところ見せちゃってごめんね」

すっかり涙は止まり、赤くなった目や涙の後が引いた頃、彼女はそんな風にキルアに謝罪した。別に気にしていなかったのに、そうキルアが口にしようとするが彼女はそれを遮って言葉を続ける。

「今度何かお礼をするよ。何がいい?」

彼女はいつもの柔らかな笑みを浮かべてそう言った。
お礼、そう心の中で呟く。楽しいことがいいと思った。出来るなら彼女も笑っていられる様な、楽しいことがいい。

「……遊園地」
「え?」
「遊園地に行ってみたい」

行ったことはないけれどテレビや漫画の中で見た遊園地という場所は楽しい場所なんだと漠然と知っていた。ここなら彼女も楽しめるのではないか、なんて幼かった当時のキルアは考えた。もう二度と彼女の涙は見たくなかった。キルアの要望にナマエは少し悩んだような顔をするといつぞやのファーストフード店前で見た少し悪戯っぽい笑みを浮かべて内緒話をする様に言った。

「お義母様達には内緒ね」

あの約束から三ヶ月後、イルミとナマエは結婚し、正式な夫婦になった。
純白のドレス。左手の薬指で輝くマリッジリング。祝福するお互いの家族。
鮮やかな幸せに満ちた空間の中、新郎の隣を歩く花嫁の笑顔が作りものであることをキルアだけが知っていた。




彼女がゾルディック家に来てもう直ぐ一年になろうとしていた。
キルアは嬉々とした足取りで兄嫁の部屋へと向かう。昨日の夜のことだった。「明日の日曜日の仕事の帰り、遊園地に行こう」そう彼女はそっとキルアに告げた。あの約束から何ヶ月も音沙汰がなかったものだから忘れられているのかと思ったがきちんと憶えてくれていたらしい。自分と彼女が一緒に遊園地に行けるタイミングなんて容易に作れないのだから当たり前か、そう思いながらキルアは兄嫁の部屋のドアを軽くノックした。
返事が無い。試しに「ナマエいるー?」と再度ノックをしながら声を掛けてみるがやはり返事が無い。部屋にいないのかと思った。そう思いたかった。だが不意に過った嫌な予感はキルアの手を無意識にドアへと導いていた。

「ナマエ…いる…?」

ゆっくりとドアを開けて部屋の中にそっと入る。嫌な匂いがした。よく嗅ぎ慣れた生臭い鉄の匂い。背筋に嫌な予感が走る中、頭で理解するより先に自分が最も望んでいなかった光景が視界に映る。

「ナマエ…?」

真っ赤な血溜まりの中で彼女は横たわっていた。震える身体を引き摺る様に広がった赤色と彼女の元へ近づいていく。赤いペンキをぶちまけた様な血溜まりの床に寝転がる彼女。右手には血に塗れた銀色のナイフが握られ、左手には、辛うじて皮一枚繋がっている状態になるまでずたずたに切り刻まれていた。カーテンの開いた窓から差し込む淡い春先の陽光はまるで自分と彼女が出会ったあの日と同じ様に、血の気の失せた彼女の顔を柔らかく照らしていた。
暫く呆然としたままどのくらいの時が経ったのだろう。目の前に広がる現実をまともに理解した頃には、もう彼女の葬式は終わっていた気がする。
ナマエは自殺した。きっと兄との関係に耐え切れなくなったのだろう、キルアは自殺の原因をそう考えた。だが彼女の部屋からは「ごめんね」とだけ書かれたメモ以外、遺書らしきものは発見されなかったので直接的な自殺の原因は誰にもわからないままだった。
妻が死んでも、長兄の態度は変わることはなかった。結局のところイルミにとって、ナマエという存在はいてもいなくても同じだったのだ。
春先の週末、暖かな陽光の中にキルアは時折淡い幻を見る。差し込んだ淡い光の中、差し出された白い左手が真っ赤な千切れ掛けの残骸に変わり、儚げな微笑が血の気の失せた白色に変わる幻影を。
きっと初恋だった。優しい彼女に憧憬と恋慕の混じった幼い焦がれを抱いていた。でも彼女は兄のものだった。兄の為に生まれて兄のせいで死んでしまった。
暖かな淡い光から逃げる様に目を閉じる。優しく髪を乱す微風はナマエが髪を撫でる時の感触によく似ていて無性に泣きたくなった。

20131201