※百合



甘い香りを漂わす小さな店先。鉢に植えられたシクラメンにパンジー、サルビアなんかを視界に入れつつ開きっ放しの硝子ドアを潜り甘い香りの強くなった店内へと足を進める。華やかな芳香を漂わす薔薇に胡蝶蘭。青色の鮮やかな竜胆にそれと対になる様に置かれた燃える炎の様に赤いチューリップ。その隣の白百合は確か鉄砲百合という種類のものだっただろうか。マドンナ・リリーという別称もある、といつだったか彼女が教えてくれた気がする。彼女と話す度にアタシは気に留めたことすら無かった花の名前や知識が増えた。きっとこれからのアタシの人生に役に立つ可能性の乏しいその知識は花の話をしている時の彼女が嫌いじゃなかったから無駄だとは思わなかった。優しい甘さを放つ色とりどりの花を滑る様に見つつ、店内に自分以外の客がいないことを確認してからアタシはカウンターで何か作業をしてる女性店員の元へ向かう。

「いらっしゃい、マチ」
「何してんの?」
「ブーケのデザイン考えてるの。知り合いから頼まれたの。もう直ぐ結婚式挙げるからって」

そう言って柔らかな雰囲気で微笑む女性。
彼女との出会いは所謂偶然以外の何物ではなかった。ある日の自分は虫の居どころが悪かった。理由は憶えていないがただ酷く苛々していて誰でもいいから当たり散らしたい衝動にすら駈られていたのはよく憶えている。そんな時、目の前で素行の良いとは言えない外見の男達が道のど真ん中で女性に絡んでいるのが見えた。確か「金出せよ」から始まり「金無ぇならちょっと俺らに付き合って貰おうか」で終わる会話が繰り広げられていた気がする。
周りの人間は絡まれてる女性を心配そうな顔をして眺め、ひそひそと会話をしたりするが関わりたくないのだろう、誰一人彼女を助けようなどするものはいなかった。いつもの自分ならそんないざこざなどスルーして遠ざかっていたことだろう。だがその日は違った。先程も述べた通りその時の自分は酷く苛ついていたのだ。
自分が通る予定だった道で揉め事が起きている。それに加えその原因は多少手酷く殴られても非難される様な対象では無い。おまけに今の自分は苛々していてその発散場所を無意識に探していた。
その場を物理的に制すのに迷いは無かった。

「助けてくれてありがとうございます」

鈴が鳴るような、と表現するに相応しい声。先程絡まれていた人か、と振り向いて彼女を見た。見るからに可愛らしい、春の花が綻ぶ様な雰囲気を携えた女性だった。自分の周囲にはいない、あまり接しない種類の人間。安堵した様な柔らかな笑みがやけに愛らしく魅力的で、気付けば苛立ちも溶かされて同性ながら一瞬だけ見惚れてしまっていた。

「大したお礼はできませんがその、…私この先の花屋に勤めているんです」

先程絡まれた時の動揺を引き摺っているらしい、少し辿々しさが残った声で彼女が言葉を紡いでいく。

「宜しければお暇な時にでも来てください。出来る限りでお礼をします」

そのまま丁寧に深々とお辞儀をして去っていく彼女。
普段のアタシだったら先程の彼女の言葉をこのまま無視して何事も無かった様に去り、二度と彼女の前に現れる様なことさえしなかっただろう。だけどその日は違った。この後蜘蛛の仕事があり、予定の時刻まで潰さなければならない暇な時間がかなりあった。暇潰しに、とアタシは恐らく自分には縁の無い、好きでもない花屋へと足を進めた。
あの後直ぐに彼女の勤める花屋に足を運べば彼女はにこにこと眩しい笑顔で自分を出迎えてくれた。そのまま再度お礼を言われ、名乗られた。「ナマエ=ミョウジ」という名前だった。自分も名を訊かれたので答えれば「可愛い名前ですね」と花が綻んだ様な笑顔で返されて正直戸惑った。
「好きな花はありますか?」と簡単な自己紹介を終えた後に唐突にそう訊かれた。何も思い浮かばなかったから素直に「無い」と答えれば彼女は少し困った様に悩みつつ、何本か花を選び、お礼だと言って小さな花束をアタシに作ってくれた。名前の知らない桃や黄、橙などの花で構成された可愛らしい花束だった。
そのままアタシとナマエの会話はどちらとも無く、何の取り留めもない雑談へと変わっていった。その会話が驚く程楽しかった。彼女は自分が喋り過ぎず、かといって黙り過ぎず、上手く相手の言葉を引き出し、会話の中で相手を楽しませることに長けていた。ある種の才能なのだろう。気づけば彼女と連絡先を交換していたし、仕事の終わりに食事に行く約束まで取り付けられていた。彼女の連れていってくれた洋食料理屋は小さいながらいい雰囲気をしたパスタの美味しい店だった。
それから暇が出来た時に店内に人のいない時間を見計らって何度かナマエの勤める花屋に何度か通ったり、一緒に食事や買い物をしに行ったりした。彼女を知っていく内に浮かんだ印象は「自分と正反対の場所にいる女の子」だった。ナマエ=ミョウジ。駅前の花屋に勤めている極々普通の女性。外見は女の子らしく、花や淡い色、それにふわふわのフレアスカートが似合う可愛らしい女の子。性格も外見通り温厚で穏和な一般人と言った感じ。幻影旅団という世間からすればあまりいい顔をされない所謂犯罪者に分類され、可愛らしいフレアスカートより動き易さを優先した服、性格も穏やかとは言えないしどちらかと言えば気が強い、そんな自分とは対照的な存在だと思った。

「ドレスが白薔薇の装飾のついたやつだったからね、ブーケも合わせて白薔薇にしようと思うんだけどどうかな?」
「……いいんじゃない?」

よくわかんないけど、と心の中で付け足しておいた。ナマエはアタシの言葉に嬉しそうに笑うと白薔薇のブーケのデザインが描かれた紙に「決定」と書き込み、カウンターに数枚散らばった紙と、試作で使ったであろう白や黄の薔薇を数本の花を綺麗に纏めて脇に置いた。そしてこちらに向き直りに人懐っこい子犬みたいな笑みを浮かべてアタシを見る。

「マチはさ、結婚したい人とかいないの?」
「はぁ?」
「結婚したい人っていうか好きな人とか恋人とか!マチは美人さんだからそういう人いないのかなーって」
「……」

好きな人。考えたことも無かった。蜘蛛のメンバーはそう言う目で見たことも無いし天地が引っくり返ったところでアタシがアイツらをそう言う目で見る日は無いだろう。逆にアイツらがこっちを異性だという認識すらしていないだろう。強化系の奴らなんて特に。
辛うじている数少ない他の異性の知人だってそう言った色の含んだ目で見たこともないし考えたこともない。
だからそのまま「いない」と簡潔に返せばナマエは少し残念そうな顔をした。

「そっか、マチは好きな人いないのか…」
「何その残念そうな顔…じゃあナマエはいるって言うの?」
「うん」
「え、嘘」
「酷いなー…私にだって好きな人くらいいるよー」

思い掛けない肯定の言葉は少なからず動揺させた。年頃の女性何だから好きな異性くらいいるだろう。別段不思議なことではないのに、まるでナマエの意中の男に彼女を盗られた様な気分になった。
アタシは改めて彼女の姿を眺めた。丹念に手入れをしているであろう艶々とした綺麗な髪に豊かな睫毛が飾られた丸い瞳、白い肌に薄紅色のチークが淡く乗せられた頬、水仕事と花の手入れで荒れてしまった指先は彼女の内側のたおやかさと懸命さを表している様に思える。どんな男なのだろう。愛らしく、優しい彼女を射止めたというそいつは。

「どんな人か気になる?」

彼女はそう言って楽し気に笑う。好奇心のまま、殆ど無意識に頷けば彼女は淡い桃色の口元を小さく緩ませて優しく微笑み、綺麗な瞳を柔らかく細める。

「私の好きな人はね、とても素敵な人なんだ。強くて、冷ややかなものを持ってて、突き放す様なこともたまに言うんだけど何だかんだでいつも優しくて…時折照れたり戸惑ったりするところが可愛くてね、堪らなく愛しいの」

瞳に、淡い熱を灯らせて微笑むナマエ。彼女が灯す熱の名前をアタシは知っている。誰かを求め、焦がれるそれはアタシはまだ経験したことのない未知のものだ。

「……告白とかはしないの?」
「しないよ。しちゃいけないの」

しちゃいけない、その言葉が妙に引っ掛かった。浮かんだ疑問に首を傾げればそれを察した様に彼女は小さく微笑んで、言葉を続ける。

「私の好きな人はね、絶対に私が告白しちゃいけないの。きっと迷惑を掛けちゃうから」
「迷惑?」
「うん。恋愛対象として見れない人から告白されたって迷惑でしょう?」

迷惑、彼女の言葉を反芻する様に呟いた。彼女は一体どんな男に恋をしたのだろう。ナマエを見れば丸い瞳を緩く細め、アタシを見てゆっくりと微笑む。風の無い海の様に穏やかで、まるで慈愛に溢れた様な笑み。その瞳の奥には哀しみや諦めに満ちた暗闇が滲んで見えた。

「マチ」

囁く様に小さく名を呼ばれる。彼女がカウンターから僅かに身を乗り出して少し荒れた白い手をこちらに伸ばした。淡い憂いの漂う、甘美な瞳と目が合った。睫毛で影の落とされたそれは蕩けそうなくらい綺麗で同性だということを忘れたかの様に心臓が大きく揺れた。その視線から逃げるように反射的に目を閉じる。どくんどくん、と心臓の鼓動だけが鮮明に聴こえる暗い視界の中、彼女の手が頬に触れるのを感じた。少し温度の低い、冷たい手の感触。私の頬を這うその指先はまるで硝子細工を愛でる時の様に丁寧で優しい。真綿で包まれるかの様な感覚に脳が溶けそうな錯覚に陥っていく。
そのままナマエの手が緩やかに移動していき、アタシの耳に触れる。耳元の擽ったい感覚に思わず身体を硬直させれば瞼の裏越しに彼女が少し笑った様な気がした。ナマエはアタシの耳の上辺りの髪を僅かに指で掻き上げ細い何かを髪に挿した。

「できた」

その声と共に目を開ける。光の入った世界の中で一番最初に目に入ったのは愛らしい彼女の満足そうな笑みだった。
何をされたんだろう、そう彼女が何かを挿した耳元の髪に手を這わす。指に触れた柔らかいがどこかしっとりとした感触。

「花…?」
「うん、黄色の薔薇。ブーケの試作で使ったやつだけどよかったらマチにあげるよ。変な話聞かせちゃったお詫び。綺麗でしょ?」

悪戯の成功した子供の様に笑うナマエ。一瞬呆然としながらも、そんな彼女の額に何と無くデコピンを入れつつ店内に設置された花の入ったショーケースの硝子で自分の姿を確認する。
自分の跳ねた癖のある髪に飾られた黄薔薇の生花。瑞々しい美しさと可憐な華やかさを漂わせるその花はガサツな自分には酷く不似合いに見える。飾られた花の女らしさが妙に落ち着かず、外そうとすれば「え」と驚いた様なナマエの声が後ろから聴こえた。

「外しちゃうの?」
「寧ろ似合わないのに何で付けてなきゃいけないの?」
「凄く似合ってるのに…」
「冗談はやめて」
「冗談じゃないよ」

ふとナマエの瞳の雰囲気が穏やかなものから真摯な色を宿した真っ直ぐなものへと変わる。唐突に変わった雰囲気に思わず身体が硬直し、気づけばその瞳に囚われたかの様に釘付けになった。

「マチは可愛いよ」

そう言うと真剣な眼差しは柔らかなものに変わり、いつもの穏やかな雰囲気へと戻った。どくどくと心臓が五月蝿く脈打つ。動揺する思考の中、ナマエ、と彼女の名を呼ぼうとすればタイミング悪く店に客が入ってきた。
自分と彼女しかいなかった空間に唐突に現れた第三者はまるで現実に引き戻す様にアタシを我に返し、形容し難い羞恥を湧かせていく。熱が隠っていく頬に気づかない振りをしながら慣れた客の応対をするナマエを一度横目で見た。営業用の清楚な微笑を浮かべる彼女に赤くなった頬を気付かれていないことを祈りながら逃げる様に店内から出て花屋の直ぐ裏の誰もいない路地へと駆け込んだ。そのまま壁に寄り掛かり、大きく息を吐く。同性相手に、何をあんなに動揺してるんだ。馬鹿じゃないのか。
そう思いながら髪に挿した花を取ろうと耳元に手を伸ばす。

「マチは可愛いよ」

指先に花弁が触れた途端思い出すナマエの真っ直ぐな瞳とあの言葉。どくん、と大きく揺れる心臓に気付かないふりをする。
だけど花を外そうとした指先は依然空を彷徨ったまま、行き場を無くすだけだった。

20131121