随分と穏やかな春の昼下がりのことだった。庭にある大きな桜の樹には満開の薄紅色が彩られていて、冬の牡丹雪のように緩やかに風を舞っていた。そんな静かに桜を眺め、日向ぼっこでもするように縁側に腰を掛けているナマエを見つけた。鶴丸はそっと極力足音を消して気配を気取られぬよう主の背後に近寄るとそっと耳元に口を寄せる。

「わっ!!」
「ひぃ!?」

耳元で少し大きな声をあげればナマエは悲鳴をあげて肩を大きく震わせるとそのまま勢いよくバランスを崩して縁側から落ちた。彼女の纏う灰混じりの薄紅の衣に土汚れが付く。相変わらず面白い驚きっぷりに笑みを零しつつも縁側の下で尻餅をついて茫然とする主に手を差し伸べる。

「どうだ?驚いたか?」
「心臓止まるかと思ったじゃない!驚かせないでよ!」

ナマエは怒りながら差し伸ばされた鶴丸の手を掴み起き上がると衣に付いた土埃を手で払っていく。手伝ってやろうかと衣に手を伸ばせば「お尻触らないで」と怒られた。そういうつもりじゃなかったんだが。
衣についた土埃を粗方払い終わると主は縁側に座り直す。自分の横をポンポン、と手で叩き座るように促した。鶴丸は誘導されるまま己が主人の隣に座ると彼女の方へと視線を遣った。目が合うと穏やかな笑みを返される。先程の悪戯についてもう怒ってはいないのが見て取れた。

「ここで何をしていたんだ?」
「お花見よ。桜が綺麗だったから」

ナマエの言葉に釣られるように大木に色鮮やかに咲き誇る桜を見た。春の日差しを透かしながらはらりと落ちていく桜は美しい。散り行く者の美というやつか。古来より日本人は桜を愛してきたがこれは遠い未来で生まれたナマエも変わらないらしい。桜を眺める視線は平安の歌人も、血に塗れた武人も、拙い言葉を繰る幼児も、遠い未来の若者も皆同じだ。

「桜の下には死体が埋まっているとよく言うな」
「えっ、やめてよそういうの…」
「なんだ、怖いのか?」
「付喪神がいるなら幽霊も妖怪もいるでしょう?夜眠れなくなったらどうするの…」

少しばかり顔を青ざめさせる彼女に今度夜の桜の下で幽霊風にでも化けようかと画策しつつ笑みを零せば、ナマエが拗ねた様に少し口を尖らす。どうした?と首を傾げれば主はそっと口を開く。

「また何か悪いこと考えてるんでしょう」
「何故そう思う」
「鶴丸がそうやって笑った後は大体変なことが起こるもの」

まるで見透かされたような台詞に思わず笑った。見透かされるのはあまり好きじゃない。細工する前にタネがバレるのは好ましくないからだ。だが不思議と彼女に見透かされるのは嫌ではなかった。声をあげて笑いながら主の頭をわしゃわしゃと撫でればナマエが「誤魔化さないでよ!」と怒ったように声を上げる。撫で終えればぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で整えつつ主は鶴丸を見て困ったように笑った。困っていながら穏やかで、でも嫌そうではない笑み。悪戯をした後、ナマエが必ず浮かべるこの笑みが鶴丸は堪らなく好きだった。この笑み見たさに彼女にちょっかいを掛けている様な気もする。
髪を整え終わるとナマエはまた桜を見た。鶴丸も釣られるように桜を見る。「穏やかだな」と鶴丸が言えば偶にはこういうのもいいでしょう?と彼女は笑った。今彼らを照らす、優しい春の日差しのような笑みだった。
こうも穏やかだと色々思い出してしまう。鶴丸は僅かに瞼を伏せ、はらりと土に落ちていく薄紅色を見ながら静かに追想する。
五条宗近に打たれ、刀としてこの世に生まれたこと。安達貞泰と共に歩んだこと。彼と共に眠ろうとしたあの日のこと。息を引き取り、静かに朽ちていく彼を眺めながら自分も緩やかに朽ち果てようと目を閉じていた。あの時も今のように酷く穏やかな心地だった。暖かな春の日差しではなく冷たく暗い土の中だったがあの時もまた静かで、穏やかだった。あのまま眠りに就くことに躊躇いは無かった。土の冷たさなんて好きではない。人の身を得る前からそう思っていた。土の中なんて退屈で寂しいところなど、尚一等好みではない。なぜあの時はあんなにもあの寂しい土の中が心地好かったのか。それはきっと、彼を好きだったからだ。鶴丸国永という一振りの刀は安達貞泰という人間を心底敬愛し、好いていた。だからだろうか。彼と共に朽ち果てることに不思議と抵抗は無かった。
ふと横に置かれた己が主の指先に自分の指先が触れた。ぴくりと僅かに動き、静かに距離を置こうとする指先を逃がすことを許さないかの様に己の指を重ねる。そのままそっと、壊れ物に触れるかのように優しく、彼女の指先を包み込むように握った。小さく、柔らかい彼女の手。鶴丸は無意識に、まるで眠るかのように瞼を落とし、瞳を閉じた。
指先から伝うただ柔らかな感触。ほんの少し温度の低い、人の温もり。呼吸のできる水の中にでもいるような揺蕩うような奇妙な安堵感は彼の隣に横たえた、あの時の感覚によく似ていた。

「君と同じ墓に入れたら、」

きっと心地好いだろうなぁ。

そう、無意識に口から溢れた言葉に鶴丸は心底驚いた。隣で桜を眺めていた己の主が目を見開き、先程驚かせた時よりも更に呆然とした表情で鶴丸を見ている。咄嗟に口を手で覆い、握っていた彼女の手を離そうとする。だが離そうとした鶴丸の手を彼女は捕らえるようにそっと握り、逃さなかった。

「主よ、離してはくれないか」
「離して欲しいなら振り払えばいいでしょう」

ただ優しく、繋ぎ留めるだけのように繋がれた手。振り払うこと自体は造作もない。だが鶴丸は振り払うことが出来なかった。
彼女はそんな彼の様子を初めから察しているかの様に目を細める優しく鶴丸を見詰める。母が幼児をあやす時のような、恋人にそっと寄り添う時のような、慈愛に満ちた視線だった。
目が逸らしたくなった。見透かされている様な視線に胸の奥から羞恥と後悔が浮かんでは苛んでいく。いっそ馬鹿にされて笑われた方がマシだ。傷つかないように真綿で包まれるなんて性に合わない。柄にも無く頬が熱くなるのを感じる。このまま逃げ出してしまいたい。だが優しく握られた掌がそれを赦さない。

「ねえ、鶴丸」

名が呼ばれる。ぞっとするくらい優しくて穏やかな声で呼ばれた自分の名。彼女と出会った中で、初めて耳にした声音に次に紡がれる言葉を想像しては思わず心の臓がびくりと跳ねた。

「お墓の中は冷たくて静かで、きっと退屈だろうから今の内に沢山驚かせてね」

約束よ。そう、からかうように主は笑った。鶴丸は目を見開いては呆然と自身の主の姿を眺める。柔らかく、彼の好きなほんの少し困ってはいるが嫌がってはいない、なんとも言えない穏やかな笑みを浮かべる彼女を見て、言葉の意味を全て理解した。鶴丸は噛み締めるように眉を寄せ、少しだけ泣きそうな顔をして俯く。肩が少し震えていた。ナマエはそんな彼を何も言わず眺めながらそっと握った掌に少しだけ力を込める。自身の想いが伝わるように、ただそっと、寄り添うように彼の白い手を握り締めた。
どのくらいの時が経っただろうか。不意に鶴丸は俯かせていた顔をそっと上げた。目元には僅かに涙の跡が残っていながらもその面にはいつものような悪戯っぽい、手に負えない悪ガキのような笑みが浮かべられていた。

「主よ、飽きるまで驚かせてやるから覚悟しとけよ」
「吃驚しすぎて心臓が止まったら責任取ってね」
「おう、一緒の墓で朽ち果てるまで寝てやるから安心しな」

20150301