親友が自殺してしまった時、泣いてる彼女を彼は慰めてくれた。家族が家ごと業火に焼かれてしまった時、彼は彼女が立ち直れる様に励ましてくれた。恋人が不慮の事故に遭って涙を溢していた時、彼は彼女の涙を拭ってくれた。
彼女の大切なものが少しずつ、しかし確実に彼女の前から姿を消す度に彼は彼女の傍にいては小さな彼女の手を取って「大丈夫だよ、オレはいなくならないよ」と不安定で崩れてしまいそうな彼女にとっては魔法の呪文の如き言葉を耳元で囁くのだ。

「オレはナマエがどんな風になっても好きだよ」

泣いて、泣いて、涙さえ枯れてしまった頃、彼は彼女にそう囁いた。
それは彼女がとある不運な事故にて世界に光を失った直後のことだった。幸い命に別状は無かったものの、彼女の大きな瞳は曇りガラスの様に濁り、二度と光の差さぬ世界へと突き落としたのだ。
家族も無くし、親友も無くし、恋人も無くし、二度と光の差すことのない暗闇に落とされてしまった彼女。
自殺すら考えたその時、彼から囁かれた悪魔の如き甘い言葉。
それは崩れ掛けてぼろぼろだった彼女をいとも容易く堕としてしまうには十分な毒だった。

「ただいま」
「おかえりなさい」

ソファーに座っていた彼女はゆっくりと立ち上がり、声を頼りに覚束無い足取りで彼の元へと向かい、その細い身体で抱き着いた。彼はそんな彼女を優しく抱き止めるとそのまま脇の下辺りを掴み抱き上げては彼女が元いたソファーへと下ろし、自分も隣に座る。
光を宿さない濁った瞳を瞼で隠し、小さく笑みを浮かべたその姿はこの世の暗闇など無縁そうな無垢や純真と言うに相応しい眩しさと純粋さを携えている。イルミは彼女の頬に手を添えて硬く閉じられた瞼に唇を落とす。その柔らかな感触にナマエは真白い頬に淡い桃色を灯し、心底幸せそうに口元を綻ばせる。

「寂しかった?」
「うん、凄く」
「そっか」

細い身体を潰さない様に抱き締め、愛でる様に彼女のその髪を撫でた。
ナマエは知らないであろう。彼女を優しく撫でるその手には彼女の大事な人間達の血に塗れていることを。
親友を自殺に追い込んだのも、家族を紅蓮の業火で焼き尽くしたのも、恋人を原型すら止めない程ぐちゃぐちゃな死体にしたのも、彼女の瞳から光を奪ったのも全部彼のその手がやったのだ。全ては彼女を永遠に自分の手中に収めるために。
彼女が次々と大切なものが無くなくし、ぼろぼろになる度に彼は悪魔の如く囁くのだ。「オレはいなくならないよ」と。ぼろぼろで壊れ掛けだった彼女は何も疑うことなく彼の手を取り縋りつく。その手が彼女の全てを奪ったとも知らずに。
イルミは愛おしげにナマエの頬を撫でると柔らかな唇に口付けた。暖かな桃色はふにふにとしていて触れているだけでどこか満たされた気分になる。そっと唇を離せばナマエは何処か照れ臭そうに微笑みながら瞼を薄く開いて光を灯さない瞳をイルミに向けた。
仮に、彼女が真実を知ったらどうなるだろうか。今自分に愛おしげに触れる手と大事なものを奪った手が同一のものと知った時、彼女は一体どんな表情を浮かべるだろうか。しかし残念ながら現在の彼女にその事実を知る術は一つもない。この事実を知るのはイルミただ一人であり、その本人はこんなこと一生口にする訳もない。
だがしかし、いつか彼女がこの違和感に気付くかもしれない。自分に対して不信を抱くかもしれない。純真で無垢で単純な彼女がそれらに気付く可能性は危惧するには余りにも低いものだが万が一の可能性を考慮して彼女の瞳から光を奪った。
視覚を奪ってしまえば行動も制限出来るし暗闇の中で彼女の頼りは自分しかいなくなる。彼女の世界に自分しかいなくなったなら後は簡単だ。ゆっくりと時間を掛けて意識を蝕んでやればいい。沢山甘やかして幸せを与えて、自分以外信じらないようにして、不信なんて選択肢ごと壊す。
世間一般ではこれを洗脳と呼ぶのだろう。

「ねぇ、ナマエ」

彼は彼女の細い腰に手を回し、耳元に唇を近付ける。まるで、彼女を手中に収めたあの時と同じ様に、呪縛の様な言葉を囁くのだ。

「今、幸せ?」

その言葉にナマエは文字通りの幸せそうな笑みを浮かべ、首を縦に振って肯定の意を表す。彼女は知らない。今成り立っている幸せの下には彼が葬った彼女の幸せが基盤になっていることも。彼が今、彼女に対し禍々しい笑みを浮かべていることさえも。彼女は何も知らずにこのまま澱んだ幸せに沈んだままなのだろう。
自分の胸に頬を子猫の様に擦り寄せて愛らしい笑みを浮かべる彼女に、彼は歪んだ笑みを浮かべながら言った。

「オレも幸せだよ」

20120601