電気石
※グランドフィナーレ後※他ページとの兼ね合いで、弥代が主人公のことを「なまえ」と呼びます(=フルネーム呼びではありません)。
今日は久しぶりに休日だ。仕事も学校もなくて、ついでに戦いもない。
そんな休みが久しぶりすぎて、何をするか迷ってしまう。買い物は仕事のついでに済ますことが多いし、遊ぼうにもツバサもエリーも、キリアさんもマモリちゃんもお仕事だ。
結局どうしたものかなと悩んだ末に事務所にやってきた。社長になったイツキなら事務所にいるんじゃないかなと見越して。
「こんにちはー」
ひょこ、と扉の向こうから顔を出す。私が思った通り、ソファにはイツキがいた。ただ、イツキだけじゃなくて黒い髪の男の人も。
あれ、今日彼は仕事じゃなかったのか。彼はフォルトナでも随一の売れっ子だから、滅多に休みなんてないものだと思っていたのだけれど。
イツキが私に気が付いて、私を視界に入れた。
「こんにちは、なまえ。今日は休みだったと思うけど……」
「うん、なんか暇になったから……。ヤシロも、こんにちは」
「? ……ああ、お前か」
今私に気が付いた、というようにヤシロの目がこちらを向いた。というよりも、本当に今気が付いたのだろう。彼の手元には台本があって、どうやらそれを読んでいたようだし。
なんの台本だろう、と覗き込む。元から彼は台本に書き込むことも台本を読み込むことも少ないからか、彼の台本は綺麗だった。それにしても綺麗すぎる気はするから、新作だろうか。
内容は、と少し読んだところで私の視線の動きが止まる。……これ……。
「恋愛もの……。……相変わらずヤシロはそっち方面の人気も高いのね」
「一流だからな」
「それ関係あるかなぁ……」
人気少女漫画が原作のドラマ、ということがすぐにわかった。私も一時期読んでいたものだし、今の学生に人気だし。これ、実写化されるんだ。
内容はよくある逆ハーレムもの……つまり主人公の女の子が、複数人の男の子に好意を寄せられて大変な日常を描く学園ラブコメディ、と言われるジャンルのもの。その「複数の男の子」の中の一人にヤシロは抜擢されたのだろう。確かヤシロの見た目がぴったり合うような登場人物がいたはずだし。
ヤシロはフォルトナに移籍する前から人気だった。私も彼のファンをしていたくらいには。だから、女性が好んで見る少女漫画原作の実写版にキャスティングされるのはもはや当然と言って差し支えないのだろう。
ほんの少しだけ、胸の奥がもやっとした。
「あっ」
唐突にイツキが席を立つ。どうしたのとそちらに視線を移せば、彼はバタバタと社長机の方へと向かっていった……と思ったのもつかの間、今度は鞄を手に持って帰ってくる。何事。
そのまま彼は事務所の出口にまで向かう。当然その時には私達の横を通るわけで、すれ違いざまに彼は言葉を残していった。
「悪い、ちょっとマイコさんに呼び出されてて時間が……! 多分、次のなまえの仕事のことだと思う!」
「大変だねえ、イツキ社長?」
「茶化すなよ……。とりあえず、いってきます!」
「いってらっしゃい」
そのまま慌ただしくイツキは事務所を去っていった。
高校生で、芸能事務所社長。前代未聞なその肩書きは私たちに仕事を運んできてくれるけれど、それと同時に彼の負担にもなっているのだろうということを厭でも理解させられてしまう。
私ももっと精進して彼を支えられるくらいにならないとなと思い至って、私はヤシロの方を見直した。
「読み合わせ、手伝おうか?」
「不要だ」
「ですよねー……」
一蹴されて肩を落とす。いやまあ、予想の範疇ですけど。
彼は自他ともに認める一流だ。台本はすぐに頭に記憶するし、NGを出すことだって滅多にない。そんな彼が読み合わせに私を必要とすることはなくて当然だ。だからこの答えだって予想していなかったわけじゃない。わけじゃないけれども。
やっぱりヤシロは殿上人なんだな、と知らしめられたようでなんとなく寂しくなってしまった。お門違いもいいところだ。
そんな私を横目にヤシロは本読みを続けている。芸能に一途なその姿はアーティスト剣弥代のものであると同時に、ただの一個人ヤシロのものでもある。……きっと、普通のファンの子は知らない一面。
ふとヤシロの台本を読む手が止まった。何かを考えるようなしぐさを見せた彼の顔を私は覗き込む。覗き込まれて私に気が付いたヤシロは、その姿勢のまま視線を私に寄越して口を開いた。
「なまえ」
「なあに?」
「壁ドン=A顎クイ=c…とはなんだ」
「ン゛っ?」
ヤシロから俗っぽい言葉が出てきたことに驚いたせいで、鼻に息が引っかかって変な声が出てしまった。怪訝な顔をするヤシロにちょっと待ってとジェスチャーをして呼吸を整えつつ、彼の言葉の意味を理解するために反芻する。
壁ドン。顎クイ。その言葉の意味を聞かれた。なるほど分かった。
なんで、と一瞬疑問が頭の中に出てきたけれど、まあ大方この台本のせいだろう。
ちょっと見せて、とヤシロの台本を受け取り読む。そこには私の予想通り主人公が「壁ドンからの顎クイあこがれるよね〜」と友達に話しているシーンが書かれていた。原作にもあったね、このシーン。
ヤシロに視線を向けるとどうやら私の態度から「こいつはその言葉の意味を知っている」と認識したようで、私の言葉を待つようにじっとこちらを見つめていた。
仕方がない。上手く説明できる気もしないけど、これは説明しないと納得してくれそうにないし。
「二つ意味があるんだけどね、この主人公が言ってる壁ドンはね、女の子を壁際に追い詰めて……壁に手をついて……逃がさないようにすること、かなあ……」
「追い詰められたいのか、この主人公は」
そうじゃないけどまあ間違ってもないから否定できない。どう言ったものかなあと頭を悩ませていると、ヤシロが唐突に立ち上がって近くの壁を殴った。実践してみようと思ったんだろうけど、それはもう一つの方の壁ドンかなあ。
このままじゃヤシロが余計な知識だけを頭に入れてしまいかねない。流石にそれはヤシロにも申し訳がない。そうじゃないよ、とヤシロの傍に立って、私はヤシロの横の壁に右手をついた。
「こう!」
「……?」
そんな悲しいものを見る目をしないでほしい。切実に。
ヤシロには響かなかったのだろう。何をしているんだ、という顔で見下ろされている。こっちは恥ずかしいながらに身体を張ったのに、だ。なんだか私だけが意識しているようで少しだけ腹が立ったので、続行してやる。
ぐぐ、と体と顔を近づける。……あんまり近づけると私が恥ずかしいから、ある程度の距離は保ってだけど。それでもヤシロは涼しい顔をしていて、腹が立つを通り越して悲しくなってきた。……まあいいよ、私がやるべきはヤシロに壁ドンと顎クイを教えることだし。
「私はヤシロより小さいから、イメージ掴みにくいかもしれないけれどっ。こうやって壁際に追い詰められて顔と体を近づけられたら、閉じ込められて逃げられない……みたいに思えてどきどきするんだよ、女の子は」
「そういうものか」
「そういうもの」
素のヤシロを知っている私にとって、こんな──恋愛に関するあれやそれやに疎い──ヤシロは想定内だけれど、世間の人から見れば結構意外なのだろうか。
というか、なんだこの状況、なんの罰ゲームなんだこれは。なんで私はヤシロを壁ドンしてるんだろう。いや、教えるためなんだけど。当の本人は涼しい顔だし。
私ばっかり緊張気味に教えてるのが阿呆らしい、とため息を一つ吐き出した。
しばらく私を見下ろしてたヤシロが私のため息に気が付いて、身体を左──つまり私が手をついていない方へずらした。これで果たしてわかったのだろうか、と一抹の不安を覚えるけれど、そんな私の思い等お構いなしに私の壁ドンから抜け出して、私の背後へと向かった。
まあ、ヤシロだって馬鹿じゃない。多分私が言ったことをもとに調べたりして吸収するのだろう。彼を少しでも動揺させることが出来なかったのは残念だけど、と体を翻した。
とん、と軽い音がして、私の前に影が落ちる。
「え、」
顔と視線をあげるとそこにはヤシロの綺麗な顔があって、私をじっと見下ろしている。
何が起きたの、と視線を左にずらすと、そこにはヤシロの腕があった。何、これ、つまり。
「……なるほど。確かにこれは、お前から見れば閉じ込められているように思えるのだろうな」
「や、やし──っ、」
壁ドンをされているのか。なるほど。いや、なるほどじゃなくて。
教えられたことをすぐに実践して確認するその姿勢は流石一流芸能人の剣弥代だ。でも、それを! 何も言わないままやるかな、普通!
これも教育の一環として文句の一つでも言ってやるべきか、と顔をあげる。ヤシロと視線が交わった。顔の距離が近くて、言おうとした言葉が喉に突っかかる。
近い。顔がいい。顔でファンになったわけではないけれど、この顔の近さは結構堪える。
どうしよう。我慢していればいつか彼も離れてくれるだろうか、と思い至って顔を伏せて耐えることを選んだ。
だけれども、ヤシロはどうやらそれでは終わらせてはくれないらしい。
「壁ドン≠ゥらの顎クイ=Aだったか。どのようなものだ」
「そっちもやるの……?」
「当然だ。主人公の気持ちを完全に理解するために必要だからな」
ストイックなのはいいけれど、それに付き合わされる私の心臓が保つだろうか。ヤシロの腕の中で死ぬのならば、まあ、その。私としても悪くない最期なのかもしれないけれど、まだ死ぬつもりはないってば。
ヤシロは私を解放してくれる気はないらしい。少なくとも顎クイを教えるまでは。腹を括るしかないらしい。ああもう、なるようになれ!
「顎クイって言うのは……こうやって目線を逸らした相手の視線を合わせるために、相手の顎を指で掬って自分の方に向けさせる……っていう……」
「……ふむ」
私の言葉を聞き届けたヤシロは、それを飲みこんでから流れるような動きで左手をあげた。視界の端にそれを映していた私は、ゆっくりと息を吐き出す。
心の準備が整う前にヤシロの左手が私の顎に触れた。待って、と声を出す隙すらなく、私の顔はヤシロに掬われてしまう。
否応なしに私の顔が上を向いて、ヤシロと視線がまた絡まる。自分の心拍数が跳ね上がったのが分かった。
まずい、本当にまずい。壁ドンの威力をなめていたというか、それどころじゃないというか。ヤシロの顔が近くて、吐息すらかかってしまいそうな距離にいるこの状況が凄く恥ずかしくて。
心臓がばくばく煩い。顔から湯気が出るほど熱い。
でも、それを意識しているのはきっと私だけなのだろう。ヤシロはやっぱり表情を変えずに、私を覗き込んでいる。
「ふむ」
「ね、ねえもういいでしょヤシロ、私──」
「この体勢ならば接吻も容易いな。実に合理的だ」
「せッ!?」
思いもよらない言葉に素っ頓狂な声をあげた。
接吻、口吸い、つまりキス。
確かにヤシロの言うように、この体勢ならばそれも簡単なんだろう。だって顔は掬われて、隣には腕があって逃げられない。
まさか今やるつもりなのだろうか、流石に好きじゃない人に関係ない場面で──レッスンなら別だろうけど──するほどデリカシーがない人だとは思わない、けども。
「なまえ」
「なっ、何!?」
「お前は、そういうものを嬉しく思うのか?」
「それは……勿論、好きな人と好き同士でするなら……」
じっと見つめられたまま質問されて、思わず何も考えずに思ったままを答えてしまう。その「好きな人」当の本人はそういうことにも疎そうだけど、と思うと溜息をつきたくなる。この距離で溜息なんてつこうものなら本当にヤシロにかかっちゃうからそれはしないけども。
ヤシロは「そうか」と小さくつぶやいた。何がそうか、なのか。意識をヤシロに戻すと、ヤシロは淡い笑みを浮かべていた。
「ならば、問題ないな」
「何、──ッ!?」
問いかける前に影が降ってきた。
私の唇に、ヤシロの薄く柔いそれが重ねられる。
それをそう≠セと認識するよりも先にヤシロの体が離れて、私はその場に解放された。そのままずるずると壁伝いに崩れ落ちて、ヤシロを見上げる形になる。
今の、今の! 言葉にならない言葉を発するために口をぱくぱく開閉させている私の姿は、ヤシロから見ればひどく滑稽なのだろう。
ヤシロは私をまた見下ろす。どこか年相応に見えるような表情をした彼は、それでも自信に満ちたような顔で言葉を零した。
「『好き同士』なら、問題ないのだろう?」
刺激的なキスが好き!
(い、い、意味わかって言ってるの、ヤシロ!?)(言っていなかったか? そういう意味で好ましい、と)(聞いてませんけどぉ!?)
2020.03.04
Title...反転コンタクト