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赤鉄鉱

 溺れそうだ。

 ごぼり、ごぼり、泡の立つ音がする。いつも手元に置いてあるはずの風神弓はない。どこまでも、どこまでも深く沈んでいって、見てはいけないものを目にした。見ているだけで鳥肌が立つような、そんなおぞましさに吐き気を覚える。
 近づいてはいけない。手を伸ばしてはいけない。理解はしているはずなのに、考えとは裏腹に自分はそれに近づき手を伸ばす。ぞわ、と何かが腕を伝って、体内へと入り込んできた。

 視界が奪われる。
 聴覚が奪われる。
 呼吸が奪われる。
 自由が奪われる。
 意思が奪われる。
 感覚が奪われる。
 意識が奪われる。

 次に意識を取り戻した時にタクミが見たものは、視界いっぱいに広がる青い空と、小さな頃からずっと見続けていたシラサギ城の城壁と、こちらを覗き見る誰かの姿だった。その姿を認めるとどうしようもなく苦しい。切ないのだろうか、愛しいのだろうか。胸の奥がじりと灼ける。
 体は既に水中に無く、背に感じるのは空気の重みと風だけだ。重力に従って落ちていく体は、それに逆らう術を持たない。なぜと手を伸ばしても、その手が何かを掴むことはなくて、終ぞその体は──醜い音を立て地面へ墜落した。







「──────ッあああぁ……!」


 叫ぶように声を振り絞りながら、跳ねるように布団を押しのけながら、白夜王国王子のタクミは目を覚ました。喉が、痛い。
 視界がある。聴覚がある。呼吸がある。自由がある。意思がある。感覚がある。意識が──ある。己の身の全てを確認してから大きく息を吸って肺を満たした。それから自分の手を左胸に当てて。


「……生きて、る」


 自身の鼓動を聞いて、安心した。
 自分はまだ生きている、死んでいない。あんな夢のように高所から墜落して絶命した自分はいない。再三確認して、ようやく安堵の息を漏らす。

 タクミは夢見が悪い。この白夜王国の全ての人間を集めても匹敵するものはいないのではないか、というくらいに。もしかすると暗夜王国の人間を集めてもそうなるのかもしれない。
 悪夢で飛び起きるのも一度や二度のことではなかった。ただ、その夢だけはえも言われぬ恐怖が付きまとうのだ。

 水の中で溺れて何かを見て、それに侵食され意識を奪われ、その意識を取り戻すのはどこかの空中で、何かをするまもなく地面に叩きつけられる夢。
 ただそれだけの夢だ。だが何故か酷く怖くて、しかも繰り返し見てしまう。見たくない悪夢と言うやつは沢山あったが、今のタクミにとってはこの夢が一番見たくない夢だ。理由はわからないが、どうしてもこの夢を「所詮夢だ」と一笑に付すことが出来なかった。
 遠くない世界に、そんなことがあったような気がしてしまうから。


「……水、飲も……」


 叫ぶようにして起きたからか、それとも夢の中で溺れるほどの水に身を浸していたからか。口の中は乾き切っていて不味い味がする。
 水を飲んだからと言ってあの夢の恐怖が拭える訳では無いが、この不快感だけは少しでも取り払いたくて、タクミは布団を押し退けた。外は薄暗い。


「……タクミ様」
「! ……その声は……なまえか?」


 襖の向こうから声がかけられる。随分と聞き慣れたその声は幼馴染のもので、自分がこの世界に一人取り残された訳では無いことを知覚してほっとした。
 そんな自分をおくびにも出さずに、タクミは襖の向こう側へと声をかける。


「こんな時間にどうしたんだよ……寝てなかったのか?」
「……いえ、その……タクミ様のお声が、聞こえたので。……お水を持って参りました」
「……聞こえてたのかよ……」


 この頃合に聞こえた、というのならば恐らくは自分が起きた時のあの叫び声だろう。なるべく声量は落としたつもりだったが、護衛が出来るようにと隣の部屋で寝食をすることになったなまえには聞こえていたらしい。他の奴らには聞こえていなければいいけれど、と小さなため息を漏らした。
 とはいえ水は有難い。幼馴染の気遣いを無碍にするつもりはないし、頂戴しよう。部屋に入ることを許可すれば、失礼します、という声とともに襖が開いた。境界の向こう側には、寝巻きに身を包んだ──護衛をいつでも行えるようにと動きやすそうではあるが──なまえの姿がある。
 律儀に一礼。それから部屋へと踏み込まれた。手に持った御盆の上にはいつも自分が使っている湯呑が置かれている。本当に、このためだけに起きたのだろう。


「こちらでよろしかったでしょうか」
「うん、有難う。……ヒナタとオボロは?」
「ヒナタは寝ております。オボロは夜間警備に」
「そう、聞かれてないならいいか……」


 手渡された湯呑の中の水を見つめる。自分の顔が映るばかりで、あの夢の中にでてきたおぞましい何かが映るわけもない。当然といえば当然なのだが、今のタクミにとっては当たり前のことが嬉しかった。
 ふと視線をあげると、こちらを心配そうに見ているなまえと目が合った。なんとなく居心地が悪くなって、ぐいっと水を飲み下す。程よい冷たさが食堂を通って、胸の内を冷やす。ああ、生きている。


「……また、例の悪夢ですか?」
「…………」
「無言は時に言葉よりも強い肯定を示します、……違いありませんね?」
「そう、だよ」


 あの夢のことは、唯一彼女にだけは知らせていた。夢の中で墜ちる自分を見ていた人影で一番印象的だったのが、なまえだったからだ。
 夢の中で手を伸ばして、自分の名前を叫んでいた。掴めるはずもないとわかっていて、自分もその手に向かって手を伸ばした。結局それを掴むことは叶わなかったが、あの顔だけは鮮明に覚えている。苦しそうに、悔しそうに、そんな顔でこちらに手を伸ばすなまえがどうしようもなく愛しくて、それから──憎い、と思っていた。
 憎むはずがない。なまえは己の最愛の人だ。何にも替え難い存在だ。だというのに何故あの夢の中では彼女をそんなに憎い目で見ていたのだろう。そして何故同時にどうしようもないくらいの悔しさと愛おしさが込み上げてくるのだろう。
 そんな夢だったから、彼女には伝えた。伝えたからどうにかなるというわけではなかったが、気を紛らわすことには成功していた。……無論、それでこの夢を見なくなる、ということは無かったが。


「……お辛い、ですか?」
「辛いというか……なんだろうな、よく分からないけど……」


 辛い、と言うよりは。怖い、と言うよりは。
 ただひたすらに、漠然と不安になる。なまえにあんな憎さを覚えることも、たかが夢だと一蹴することが出来ないことも。
 あの現実感が、いつか本当にこの世界を満たしてしまうのではないか、と不安になってしまう。そんなことあるはずがないのに。


「…………」


 どう言っていいのかわからなくなって閉口した。まさか笑われることはないと思うが、そんなあまりにも作り話地味た自分の考えを、おいそれと口に出せるわけがない。なまえが相手ならば特に。彼女を信じないわけではない。だが、簡単に言って信じて貰えるとは思わなかった。
 何を言おう、と考え込む。そんな折、ひとつ彼女のふう、という息が聞こえる。


「失礼します」
「なまえ? 何を……」


 一礼。その所作に半ば見とれるようにしていると、なまえの手がタクミの頬に触れた。何か割れ物を触る時のように優しい手つきで、それでいてしっかりと。
 じんわり、彼女の体温が伝わってくる。そのままの姿勢で、なまえはじっとこちらを見つめていた。


「どうですか?」
「どう、って?」
「温かい、ですか?」
「それは、まあ」
「なら、」


 ふ、と微笑む。
 あの夢とは似ても似つかぬ、優しくて幸せそうな表情。タクミが恋焦がれて止まない顔だ。少し心臓が跳ねた気がする。
 そんなタクミの心境を知ってか知らずか、その手を下ろして、そのままタクミの手を取った。重ねられた手は、やはり温かい体温を如実に伝えてくる。


「ここは、夢じゃありません」
「……え」
「私の体温が伝わって、私の存在が示されて、……私と手を取れる。そのタクミ様の夢では、なかったことでしょう?」

(──ああ、)


 彼女の言う通りだ。あの夢では、どれだけそうしたいと思ってもそれは叶わない。自由は奪われ、手が触れ合うことは無い。
 でも今は違う。なまえの温かさは確かにタクミに触れる。手を掴むことも出来るし、彼女も笑ってくれる。
 ここは、夢ではない。


「ですから、タクミ様。怖くなったらどうか私の手を取って。なまえはここにいます、タクミ様」
「……別に、怖くはない。でもそう言ってくれるなら……」


 握られた手を握り返して、そのまま引いた。よろけたなまえの体は自然と自分の腕の中へと収まる。彼女は抵抗する訳でもなく、そのまま瞳を閉じた。君となら、悪夢にも立ち向かえる気がするから。



悪夢がどうした
(だってここは現実でしょう?)




赤鉄鉱-Hematite-
石言葉:自己認識、自信、勇気、勝利


Title...反転コンタクト
2018.12.02 執筆