方解石
目の前で棒切れを振るう妹の姿にフェリクスは眉を顰めた。体幹が安定せず、狙いが一定ではない。地面に縫い止められるべき足元も覚束ず、棒を振るう手も震えている。
これは訓練だ。故にどれだけ拙い技術であろうと、その身に危険が迫ることは無い。
ないのだが、それにしたってこれは酷すぎるだろう。
鍛錬を積むこと自体を否定はしない。それは確実になまえの糧となるだろうから。
だがこれは、如何なものか。
基本的な筋力が身についていないように見える。そもそも剣を握ることに少なからず恐怖を覚えているようにすら感じられる。
これでは実戦で剣を握るだなんてとんでもない。剣を飛ばしてしまって怪我をするのが当然だ。
そもそもなまえには理学の才能があるのだし、わざわざ剣を握る必要が見いだせない。
それなのに何故この妹は剣を握りたいなどと口にしたのか。フェリクスにはなまえの考えがわからなかった。
見るに耐えかねてフェリクスは口を開く。
「……おい、なまえ」
「へ、下手なのはわかっています、お兄様……」
「下手どころの話じゃない」
「わかっています……」
嘘をついて煽てても仕方がないし、彼女とてそれを望むような人間でないことはフェリクスもよく理解していた。
故に思ったままを伝えれば、少し項垂れはしたものの納得したような顔をされる。自覚はあっただけ良い方だとは思うが、それでも剣から視線を離さないなまえに溜息をついた。
「急になんなんだ、お前は。今までろくに長柄を握ったこともないだろうが」
「それは、そうですが……」
「…………」
歯切れの悪いなまえの言葉を待つ。言いにくいことを言おうとしているのではなくて、言葉を選んでいるようだと判断したからだ。
これがシルヴァン相手だったら「言いたいことがあるのならはっきり言え」とでも言ったのだろうな、と思う。肉親に向ける甘さに気が付いて渋い顔をしそうになった。なまえを困らせても仕方がないので表情には出さなかったが。
そうこう考えているうちになまえが言葉を選べたらしい。なまえの視線がこちらを向いていた。
「強く、なりたくて」
「……何?」
我が妹のことながら言葉が足りていない。そういう似なくていい部分だけ似てしまって微妙な顔をしてしまった。
なまえの言う強さとは一体何を指しているのだろう。まずフェリクスにはそれが理解出来なかった。
誰かを傷つけること、誰かを守ること、或いは一人でも生きていけること。そのどれもが強さと称されるものだが、全部異なる強さだ。
なまえがどれを望んでいるのかフェリクスにはわからないし、そもそも彼女にそれが必要だとも思わない。
「……必要ないだろう、そんなもの。騎士にでもなるつもりか?」
「いいえ、そうではないのですけれど……」
イングリットに感化されたのかとも思ったがそういうことでもないらしい。騎士になるつもりではないのならば、ディミトリも無関係だろう。
ますますわからない。彼女が何を想い、何を感じ、どうしてそうなろうと思ったのかがわからない。
また彼女は暫し迷う。言葉を選ばなければすぐに言えるだろうに、と彼女を少しばかり憐れんだ。その思慮深さは美徳だが、それでなまえが損をしたところだって何回も見てきた。
「……お兄様の、お力になりたいのです、私は」
「…………」
思いも寄らない言葉が降ってきてフェリクスは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をする。
力になりたい。なまえの口からそんなことを告げられたのは初めてだった。彼女が生まれた日から今日までずっと共にあったというのに、そんな自我を告げられた日は一日たりともなかった。
それが、なぜ。答えを求めて彼女の目を見た。否、本当は答えなんてわかり切っているのかもしれないが。
「お兄様を、おひとりにしたくはないのです」
「俺がそれを望んでいたとしても?」
「……それでも」
なまえが自分を見上げる目を見て嘲笑う。
「俺が兄上のように消えないためにか」
「……それは」
図星だったのだろう。目に見えてなまえの表情が歪んだ。それでも視線を逸らさない辺りどうやら本気らしいが、フェリクスにはどういった感情もわかない。
フェリクスとなまえの兄グレンは死んだ。
当時幼かった二人にはそれをどうすることも出来なかった。ただ事実を告げられて、意味もなく漠然とした何かを恨んだということをフェリクスは覚えている。
自分よりもさらに幼かったなまえはきっと自分よりも大層辛かったことだろう。その辛さを推し量ることはできないが、あの日のなまえの取り乱し方を思い出しては憂鬱な気持ちになる。
その頃のなまえが今顔を覗かせている。フェリクスとグレンを重ねてその未来を恐れて、そんなことを言い出したのだ。
酷い妹だ。嘲笑を隠しもせずにフェリクスは言う。
「俺はお前に守られるほど弱くはない」
「守るだなんて、そんな烏滸がましいこと……」
「同じことだ」
力になりたいなどとうそぶいてくれるな。
冷えた声でそう口にすれば、なまえは反論のための口を閉ざした。
なまえもわかっているはずだ。彼女のその思いは、純粋にフェリクスの補佐を望むものではないことくらい。
それは独善だ。己れがフラルダリウスの盾となり、身を挺してまでフェリクスを守りたいという願望と独善だ。
気に喰わない。
帯刀していた剣を抜き、その切っ先をなまえに向けた。
彼女は怯えない。切っ先が首を裂かないことを知っているから。事実を突きつけるために抜かれたものだと知っているから。
それすらも理解の上で、フェリクスは続ける。
「守られているのは、お前の方だろうが」
「……このフラルダリウスに必要なのはお兄様です。私を守るのではなく、私がお兄様を守らなければならないのです。それは、よく、わかっているでしょう……」
「だから使えもしない剣を使い、俺の後方ではなく前に立とうと。無謀だな」
「わかっています……」
自分自身愚かだということは理解していたのだろう。
それでもそうせざるを得ないほどに追い詰められていたのだろうということはわかる。
痛々しい。
「……すみません、お兄様。私、少し頭を冷やしてきます」
「そうしろ。何もお前が俺の前に立つ必要はない」
「……はい」
「理学を磨け。そうすれば後ろで守られることなく、俺の隣に並び立つことくらいは叶うだろうよ」
「お兄様……」
「どうしても強さを求めるというならば、お前の速度でそれを目指せ。焦る必要がどこにある」
背を向け、視線だけこちらに寄越したなまえは何も言わない。
構わずフェリクスは、その背に告げることを選んだ。
「楽しみにしているぞ、お前がここまで来るその日を」
なまえのその目がくすんでいないことに、フェリクスは少しだけ笑みを柔らかくした。
少しずつ、強くなる
方解石-Calcite-
石言葉:成功、希望
2020.06.21
Title...ユリ柩