「……では、ここからを……東雲、座ったままでいいから読んでくれ」
前の席に座る名前を呼ばれた幼馴染の背が小さく揺れる。まさか当てられると思っていなかった、みたいな反応だなぁ。
ちら、と彰人の視線がこちらを向く。授業ちゃんと聞いていないからこうなるんだぞ、と心の中で言いながらページの二行目だと伝えるために二本の指を立てて見せた。
「己は……あー……けびいし……の丁の役人ではない……」
気だるそうに言葉が紡がれていく。心地の良い低音が鼓膜を揺らしたのを目を伏せて聞き入った。
私の幼馴染、東雲 彰人は声がいい。俗っぽく言うならいわゆるイケボ=Aなんだと思う。
声変わり前は特に強く意識したりはしていなかったのだけど、声変わりした後の彰人の声はすごく、なんというか……心地いい。彰人のお姉ちゃんの絵名も、なんなら彰人と絵名のお父さんもいい声しているから、多分そういう家系だ。
聞き取りやすい滑舌、耳馴染みのいい低音、男の子らしい声なのに、たまに柔らかい音を携えて鳴る。
そんな彰人のせいで今や私は立派な美声好きに育ってしまった。もっとひどい形容をするなら多分、……多分だけど、声フェチ。
テレビに出ている芸能人の声より彰人の方が聞きやすいなぁ、と思ったときには流石に自分の手遅れを感じた。いやだって仕方ない、あの芸能人ってばそれがかっこいいと思っているのかボソボソ喋るんだもの!
まったくなんてことをしてくれたのか、と彰人にとってはいわれのない悪態を思いながら彰人の声を聞いている。
この声好きのせいで将来好きな人ができても声がなんか違う、ってならないか一抹の不安を覚えたりもした。
†
別に彰人の声だけがいい声だと思っているわけじゃない。
先に言ったとおり、彰人のお父さんもいい声だなぁ好きだなぁと思っている(気難しい顔している人だから真正面から向き合いたいとはなかなか思えないけど)し、女の子の声なら絵名の声だって好きだし。
彰人の身内、血筋以外にだっていい声の人はいる。
例えばA組の白石さんや暁山さん。例えばB組の草薙さん。暁山さんと草薙さんはあんまり聞いたことないけど、たまたま聞こえた声がとても通りが良かったのでよく覚えている。こう言うとちょっと変態っぽいな、私。
上級生で言うなら変人ワンツーフィニッシュの天馬先輩や神代先輩も素敵な声をしている。関わり合いになりたいとは思わないけど。というかワンツーはともかくフィニッシュってなんなんだろう。あの二人で打ち止めってことなんだろうか。
そして最たる例が彰人の身近にいる。
彰人の身近にいるということは、後ろの席の私もそれを耳にすることがあるということで。
「すまない彰人、今大丈夫だろうか」
「冬弥? どうしたんだよ」
B組、青柳くん。
彰人と音楽のチームを組んでいるらしい彼はよく彰人に会いにC組まで来る(チームに関してはA組の白石さんもそうらしいけど詳しいことはよく知らない)。
必然、後ろの席に座る私はその光景をよく見ていることになるので、青柳くんの声を聞くことにもなる。
彼の声はとても素敵だ。
彰人とは質の違う低音で、彰人がキレのある音だとすれば青柳くんは丸っこい音。全然違う声質なのに、二人の声が重なっていて嫌な感じはまったくない。
耳福、というのは多分こういうのだ。
けれどもちろん、聞き耳を立てたいわけではない。
というか流石にそんな趣味の悪いことをしたら変態どころの何者でもないので必死で頭の中から邪念を消し去ろうとしている。
ああやっぱりいい声だ、いやいやでも話を盗み聞きしていいわけはない。
そんな己の中の葛藤と戦っていると、彰人が身体を捻ってこちらを向いた。
「おい、お前辞書持ってるか」
「ひぇ……」
「は?」
しまった。観察対象(にしちゃいけないとは思ってるけど)から声をかけられてしまって思わず声が漏れた。
ああ違くて、と適当に誤魔化してみたけれど彰人からは訝しむような目を向けられるばかりだ。さっきの授業、助けてあげたの私なんですけど。
それにしたってなんで急に私に話しかけてきたんだ。青柳くんはどうしたと一瞬思ったけども彰人のすぐ横には青柳くんが立っていた。余計になぜ。
「冬弥が辞書借りてえって。お前の貸してくれねえか」
「……彰人のは?」
「…………課題で持って帰ってそのまま持ってきてねえ」
これは嘘だな。多分邪魔になるからって持ってきてないだけだよこれ。ちらと青柳くんを見たけど青柳くんも同じようなことを言いたげな目をしていた。
まぁでも、うん、辞書なら当然貸してあげられる。全く知らない人に言われたらびっくりしてしまうけど、幼馴染の彰人の相棒、っていう立ち位置なら彰人というクッションがあるからまったく知らない誰かってわけでもないし。
ちょうど都合よくさっきの国語の授業で机の上においていたのでそれを青柳くんに差し出した。
「はい、どうぞ」
「すまない、助かる」
「いえいえ」
直接向けられた感謝の言葉に、というかそのきれいな声に思わずたじろいでしまいそうになる。不審者まっしぐらは勘弁願いたいのでなんとか耐えたけれども。
青柳くんがじっと私を見ていることに気がついた。え、なにかおかしなことしちゃったかな。声聞いてるのバレてしまったのかも、と思うと冷や汗が出た。
「後でお礼がしたい、みょうじは何が好きなんだ?」
「気にしないで、彰人が貸せないのを貸しただけだし」
「そうだぜ冬弥、こいつにそういうの要らねえよ」
「彰人が言うのはなんか違う……」
元はといえば彰人が辞書持ってきてたら良かった話でしょ、と言うとめちゃくちゃ怪訝な顔をされた。
律儀だなぁ、と思う。こんな律儀な人が彰人と組んでひとつのことをやり遂げようとしているというのは何だか不思議な気分。彰人も律儀なのはそうなんだけど、なんか種類が違うというか。
……いや、私が彰人に適当な扱いをされてるだけかも。
それにしても好きなもの、好きなものか。自販機で買える飲み物とか購買で買える食べ物とかを想定しているのかな。
そりゃ私だって人並みに好きなもの嫌いなものはあるけど、たかが辞書を貸したくらいでそんなお金がかかるようなことさせるのも何かおかしい気がする。
断ろうとしたけども青柳くんはなおも私を見ていた。これは多分簡単には引き下がってくれないよなぁ。
どうしよう、お金が発生しなくて私が受け取って嬉しくなるもの……と考えて、ふと思った。
「……声」
「こえ?」
流石に気色悪いような気はする。でもこれしか思いつかない。いや感謝の手紙とか欲しいって言うよりはまだ健全じゃない? そう思っておこう。
青柳くんが不思議そうな顔をしている。口に出した以上もう逃げ道はない。なんか彰人からすごい顔で見られている気がするけど今はおいておこう。
「ええと……、青柳くんの声とても素敵だから、そのお声で名前呼んでありがとうって言ってくれたらとても……物品とかよりも嬉しいな、と……?」
「そんなことでいいのか?」
快諾してくれそうな雰囲気で拍子抜けしてしまった。もう少しびっくりされるとか、引かれるとか思っていたんだけどそんなこともないなんて。
ねえ彰人、青柳くん大丈夫なの、と問いかけるように目線をそちらに向けるとすごいじとりとした目で睨まれてた。え、ごめん。そりゃそうか、相棒に何頼んでんだって話か。
思わずやっぱいいよ、とお願いを取り下げようとしたら青柳くんと目線が絡まった。そのままふ、と微笑まれて。
「みょうじ……ああいや、名前ならなまえ、の方がいいだろうか」
「へ」
「ありがとう」
名前、を、呼ばれた。
いやたしかに、名前呼んでとは言った。言ったけど。めちゃくちゃ苗字のつもりでいたのでとてつもない爆弾を投げつけられた気分だ。
え、青柳くん私の名前知ってたの。いや彰人か、彰人が名前出してたのか多分。
めちゃくちゃいい声だった。素敵な声だった。しばらく放心してしまいそうになるくらいに。
「授業が終わったら返しに来る。また後で」
「……また、あとでー……?」
「彰人も、また後で」
「……おう」
いい声に名前を呼ばれることの破壊力を舐めていた、と痛感しながら青柳くんの背を見送る。
今の私めちゃくちゃ不審者なんだろうな、と客観的な私が思っている。でも仕方無くないか、あの低音をまっすぐ向けられて感謝を伝えられるんだよ、びっくりしちゃうのも仕方ないでしょこんなの。ボイスメモを撮らなかったことを後悔しそうになるけど、ボイスメモ撮ってたらもっと変態でしかない。
「……び、っくりした、青柳くん声良すぎ……」
「…………」
じと、とまた湿っぽい視線で睨まれる。
相棒のことこんな気持ち悪い風に見られたらそりゃ不快なのもわかる。ごめん。でも私の声フェチの原因は彰人だし問題は彰人にもないかな。ないか。
はぁ、と彰人の口がため息を吐きだす。これは怒られるかな、とちょっと身構えた。
「なまえ」
「……はい……」
「……なまえ」
「はい…………」
「…………なまえ」
「……何?!」
名前を呼ばれてやっぱり彰人の声もいいな、なんて思ったのを隠して返事をする。お前とかこいつとか呼ばれるのが常なので名前を呼ばれるのは少しくすぐったい。何もおかしなことではないのだけど。
それにしても名前を三度も呼ばれるのは少し不安になる。ちょっとずつ間が出来たりして声が低くなってたりしてそんなめちゃくちゃ怒られてるのか私。
反省の意を示すように縮こまって彰人を見る。むす、と一文字に結ばれた唇が面白くなさそうに開いた。
「なまえはオレの声、好きなんだろ?」
「え、何、辱められてるの私」
「オレの声、が、好きなんだろ、お前」
「……はい」
なんでそんなことを聞かれているんだろう。問いかけたかったけど多分聞いたところで答えてくれない。彰人はそういう人だとよく知っている。
苛立ちというか不満というか、そういうものを持った低音が向けられる。ちょっと怖いけどやっぱりいい声なのは変わらない。彰人には私の声フェチ知られてるし、隠したところで仕方ないので素直に頷いておく。
再び彰人からため息が聞こえる。罵られでもするのだろうか、とちょっと不安になった。
「ならいい、あんま冬弥に変なこと言うなよ」
あれ、怒られなかった。呆れられはしてそうだけど、怒鳴られたりしなくてちょっとだけ安心した。
……ん? でもなんか、その言い方は変じゃない?
「それは……うん、ごめん。でも、ならいいって何?」
「……なんでもねえよ」
「えー……」
いまいち腑に落ちないごまかし方をされてしまった。でもこうなったら彰人は何も言わないし。
ならいい、と言った彰人の顔が少しだけ安心したように見えたのは気のせいだった、とも思えないんだけどなぁ。
オレの声、好きなんだろ?
2023.02.22
Title...確かに恋だった