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ようこそ、私の世界へ

 大修道院の鐘が鳴り響く。これは昼時を告げる鐘の音だ。
 自分が士官学校の生徒だったころと変わりのない音を聞いて、どこか懐かしい気持ちになった。ああ、と会合相手のベレトが声を漏らしたのを聞いて、ディミトリは顔を上げた。


「もうこんな時間だったか……、道理で腹が減ると思った」
「はは。相変わらずだな、先生は。食事にしようか」
「ああ」


 そうだなと腰を上げたベレトに、ディミトリは思わず頬を緩めた。
 ディミトリのいつもの食事はとても面白いものではない。ディミトリに備わっていた味覚機能は不具合を起こし、今では何を口に入れてもその味を感じることが出来ないからだ。フェリクスにも「不味そうに喰うな」と怒られたことがある。
 だが、食事そのものは嫌いではなかった。味を楽しむことはできないが、雰囲気を楽しむことが出来るから。特に士官学校時代はベレトや学級の仲間と食事を囲むことが多かったし、あの時の記憶のお陰で今の自分が食事をおろそかにしないでいられると思う。
 今日のこの時間も少し楽しみだった。何もかも五年前のままというわけにはいかないが、それでもこのベレトと食事を共にすることはディミトリの楽しみになりえた。年甲斐もなく少し心が弾んでいることに気が付いて、自身を落ち着かせるように息を一度深く吸った。


「食事はいつも食堂で?」
「うん。忙しい時は執務室で取ることもあるけれど、皆の顔を見て食べた方が落ち着くから」
「昔から変わっていなくて安心するな」


 そうだろか、とベレトが頭上に疑問符を浮かべる。きっと自分では変わったつもりなのだろうが、それでもディミトリから見れば彼は変わらず先生のままだった。
 たとえそれが後ろ暗い闇を呑み込んでいる大司教だったとしても、ベレト自身はずっと変わっていない。その事実がなぜだか妙に嬉しく思える。


「じゃあ先生、早速食堂に……」
「先に向かっていてくれ」
「え?」


 一緒に向かうものだと思っていた。予想していなかった返答に唖然としてしまった。あまりにも驚いたものだから、何故だとかそんな疑問すら口から零れない。
 同じ場所に同じように向かうのに、先に向かえと言われるのか。ディミトリにはその理由がわからなかった。
 ディミトリのその表情に気が付いたベレトが、違うんだ、と口を開く。


「クリスティアを起こさなければいけないから」
「クリスティアを?」


 予想していなかった人の名前を聞いてディミトリは部屋を見渡して考える。そういえば、今日は彼女の姿を見ていない。
 起こさなければいけない。その言葉の意味を噛み砕き、咀嚼して、思わずぎょっと目を開いてしまう。今さっき聞こえてきたのは昼時を知らせる鐘で、ベレトの言葉が本当であるのならばそれは彼女がこの時間まで寝ていたことを意味している。
 護衛という立場にあるクリスティアがそんなこと許されるのか。それだけではなくて、彼女を起こすのが大司教であるベレトだなんて。
 言いたいことがありすぎて、うまく言葉を選べない。どうにか絞り出したのは、あまりにも直球な言葉だった。


「……この時間に、先生が?」
「……気が付いているとは思うが、クリスティアはただの護衛じゃない。護衛と侍女のフリをさせてはいるが、彼女の本業は裏稼業だ」
「それは……ああ、分かっている。彼女と俺が出会ったのも、まさしくその仕事の最中だったし……」
「だから彼女は、夜に活動することが多い。そういう輩は、闇夜に紛れて動くから」
「……あ」


 成程、と事情を嚥下した。
 確かに、彼女の本業……つまり殺しのことを思うと昼の活動時間よりも夜に活動する時間の方が必然的に多くなるだろう。であれば、朝に眠りについて昼に目を覚ますことが多いのも当然だ。
 納得がいった。それでもやはりなぜ先生がその役目を負うのだろうと首を傾げる。どうやらベレトはディミトリの視線の意味すら読み取ったらしく、ふっと薄い微笑みを浮かべてディミトリに告げた。


「自分がいかないと危ないから」
「危ない? それはどういう意味で……」
「ディミトリも来てみるか?」


 危ないだなんて形容をつける人のもとに一国の王を連れていくとは、と苦笑した。そもそも、大司教がその場に向かうのだから今更ということかもしれないが。
 ならばとディミトリは共に行くことを決めた。どうせなら、彼女とも一緒に食事が出来ればいい。





 執務室から出て程無く。
 一際冷たい扉が立っている。ベレトが言うにはここが彼女に与えられた部屋らしい。何故だかそこが纏う雰囲気はどこか近寄りがたいものにも思えた。
 とんとんとん、とベレトが三回戸を叩く。中から返事はない。暫く待ってみたが扉が開く様子もない。
 本当に彼女はここにいるのだろうか。そんな疑問がディミトリの頭を掠めた時、ベレトが開けるぞと言って扉を開いてしまった。躊躇いなく開いたベレトの姿はいっそ清々しいが、彼女だって女性だ。遠慮とか尻込みするだとか、そういった逡巡はないのだろうか。
 ディミトリも、とベレトに誘われ自分も彼女の部屋へと目を移す。

 生活感の無い部屋だった。


「……ここは……」


 気が狂いそうになる静けさの中、聞こえるのは自分の鼓動と寝息。
 家具はなく、床には乱雑に散らばった何かの書類。壁は真っ白で無機質だ。
 部屋の真ん中には書類の上に倒れるようにして眠っているクリスティアの姿がある。


「……また途中で落ちたな」
「落ちたって……」
「仕事熱心なのはいいことなんだが」


 ベレトの言葉から推測するに、彼女はどうやら仕事──恐らくこの書類に関連すること──の最中に意識を落としてしまったのだろう。その証拠が書類の山で眠るクリスティアだ。
 眠る彼女はひどく静かだ。寝息が無ければ死んでしまっているのではないかと思ってしまうくらいに静かで、身動きをひとつも取らない。
 その表情はどこかとても幼くて、とてもではないがあの血の色をした目を携えるあのクリスティアと同一人物には見えなかった。
 けれど、このまま眠らせておくのもよくないだろう。床に毛布も敷かずに眠るのは身体を悪くしてしまうし、そもそも時間的にももう起きるべきだろう。朝に眠り始めたのだとしても。


「仕方ないな……。先生、クリスティアを起こすぞ」
「あ、待てディミトリ、今のクリスティアは……」
「?」


 ベレトからかけられた声に反応して彼女から視線を外す。今の彼女は、なんだ。口を開き、それを問おうとする。
 部屋の中の世界が動いた。

 視線を逸らした先から何かが動く気配がした。それが明確な殺意を持ってこちらに近寄ることも瞬時に理解した。
 きっと傍から見れば一秒にも満たない時間だ。だが、それを受け取りどう処理すべきかは身体が理解している。

 向かう殺意から身体をずらす。
 呼吸を合わせて殺意の元を捕らえる。
 手を伸ばして、それに触れようと──。


「クリスティアッ!!」
「──っ、」


 ベレトの大きな声が部屋に響く。その後に襲ってくる静寂は、この世界が動く前のものと同じだった。
 ディミトリの喉元に刃が向けられている。ディミトリの手はその刃を持つ腕をつかんでいる。
 そっと顔を上げて見た腕の先には、クリスティアがはっとした顔で立っていた。


「……ディミトリ王?」
「…………」
「……あー、やっちゃった……」


 ディミトリが掴んでいたクリスティアの腕から力が抜けた。同時に彼女が持っていた刃が地面に落ちて、ディミトリはそっと息を吐く。
 彼女の手を解放した。また同じようなことがないとは言い切れないが、あるとも思えなかったからだ。
 姿勢を正してきちんと立つ彼女を見る。その顔は心なしか青ざめているようにも見えた。
 それから、彼女は綺麗な礼をとった。


「ごめんなさぁい……、ベレト以外の気配がして、思わず……」
「……先生、危ないってまさかこういうことか」
「うん」


 なら先に言っておいてくれ。
 喉に引っかかった言葉を溜息にして吐き出した。自分が先に確認をとらなかったことも、よくよく考えれば落ち度だったのだろう。
 本来ならば一国の王に刃を向けたことは大罪として扱われるべきことだ。だが、ディミトリにそれを責めるつもりはなかった。勝手に部屋に入ったのは、向こうから見ればディミトリの方だ。


「あれだけ扉を叩いても起きなかったのにな……」
「気配で起きるからな、クリスティアは。自分以外の気配にはまだ慣れていなくて、こうして襲ってしまうのだけれど」
「だから先生が起こしに来ているのか」


 昔馴染みだと言っていたしベレトの気配には敵意を感じないとか、そういうことなのだろう。
 ちらとクリスティアの方を見ると、本当に申し訳なさそうな顔をしながらこくこくと頷いていた。殺し屋、だというのに随分と臆病そうな顔をする。


「少し驚いたが、気にしていない。俺も不躾だった、すまなかったな」
「いや……ディミトリ王が謝ることないでしょう……」
「そうだぞ、ディミトリ」
「ベレトはなんでディミトリ王を連れてきたのさ……」


 おずおずとしながらも言葉を紡ぐクリスティアがなぜだかおかしく見えてふっと嗤ってしまった。幸いにもそれはクリスティアには気づかれていなかったようだ。
 視線を部屋の中へと移す。クリスティアのこの無機質で恐ろしさすら感じる世界が、クリスティア自身という殺し屋にどうも結びつかないことにディミトリは小さく息を吐いた。



ようこそ、私の世界へ







2020.07.03
Title...シュレーディンガーの恋