だめだよ、まだ、死んでない
「──しくじった、一人逃がしちゃったか」
廃墟の中、足元に広がる血の池を踏み締めて女は呟く。ぴちゃぴちゃと粘性のある音が耳を撫でた。
転がっている死体の数を数える。幾度数えようとその結果は変わらず、女は溜息を吐き出した。数が合わない。
視線を上げる。血の池の端から外へと続く扉の方へ点々と足跡の形をした血溜まりが続いていた。大きさからして少女のものだろう。
「追いかけっこは趣味じゃないんだけどなあ……」
その呟きは誰に聞かれることもない。聞かれていてもそれはそれで面倒だから、これでよいのだけれど。
手に持っていた剣を鞘へと納める。その刀身は夥しい量の血を吸って赤く鈍く煌めいていた。
†
戦争は終わった。だが戦火が残した疵は容易く消えるものではない。
そういうことはディミトリも理解していた。故にこの状況とてディミトリの想定にあった、はずだ。
ガスパール領。かつてロナート卿が治めていたこの地は、領主の喪失によって混迷している。
そしてこの領地は比較的帝国領との国境が近く、帝国領に動きがあれば真っ先に話や事態が通るところでもあった。
そのためガスパール領の視察はディミトリにとってもある程度優先されるべき事項だ。混乱する領民を導き、帝国領に不測の事態が起きていないか探るために。
この地に詳しいアッシュが付き添い、警護も多くはないが手練れを連れてきた。抜かりはない。
慢心もしていない。油断もしていない。そのようなものはあの戦乱に置いてきた。
それでも、予想だにしない出来事というものは得てして起こってしまうのだろうということを痛感する。
警備の間を縫い、現れたのは一人の少女だった。
平均的な顔立ち、平均的な服装、平均的な体形。どこにでもいるような出で立ちをした少女は、それでもディミトリの目についた。その足元が、血に濡れていたから。
それだけが異常で、しかしそれしか異常がなかったが故にディミトリは一歩前に出て少女に問いかける。どこか怪我をしているのか、と。
それがいけなかった。
一歩踏み出し、周りの人より少し前に出た。それが切っ掛けとなり、少女はこちらに駆け寄ってくる。──手に短剣を持って。
周りの人間がディミトリの護衛のために動くよりも、少女を捕らえようとするよりも先に彼女の刃はディミトリの腹部を掠めた。
だが、それだけだ。
ディミトリとて守られるだけのひ弱な王ではない。あの戦乱の先頭に立ち、終局へと導いた一人だ。自衛の術も戦闘の術もその身に焼き付いている。
少女からの攻撃──とも呼べない脆弱な一撃に、反撃の一手を打った。
嫌な音がした。
反撃の手が間違いだったと気が付いたのはそれが聞こえてから。
少女の体は地面に打ち付けられ、ぐったりと倒れこんでいる。ディミトリの反撃をまともに喰らってしまったのだろう。
人よりも怪力であるディミトリの一撃を喰らったのだ。その身に与えられた痛みは並大抵のものではない。咄嗟に行った反撃で、力加減など出来るはずもない。
「っ……陛下! だ、大丈夫ですか……!」
「……アッシュ。俺は、……俺は平気だ。だが……」
あの少女が、と目を向ける。僅かながらも手が動いていたことに安堵した。よかった、生きている。
自分を殺そうとした相手の無事を確認して安堵するなど、フェリクス辺りに知られては呆れ顔をされてしまいそうだと思った。それでも、それがディミトリという男なのだから仕方がない。
いずれにせよ、彼女は捕らえなければならない。
なぜ自分を狙ったのか、どこの誰なのか。それを聞いて、自分に不徳があればそれを正さねばならない。
捕らえる前に最低限の治療をしてからだな、と思い至る。少女に治療を──と指示を口に出し始めたディミトリだったが、その言葉の先が落ちることはなかった。
「だめだよ、ディミトリ王。まだ、死んでない」
「──な、」
聞こえた声に脳内で問いを返す。何がだめなのだ、と。
しかしそれが喉を震わせることはなかった。
倒れこんだ少女の喉を、剣が貫いている。
血を吸って赤くなったような剣が、貫いている。
「──ッ!!」
顔を上げる。少女を貫いた剣の先を見る。
冷えるような、剣と同じ赤い目をした女がじっと少女を見下ろしていた。
「お、前、何を──」
「この子はディミトリ王を殺そうとした暗殺団の一味だった子。貴方の暗殺依頼を受けていた。それに加えて元は魔道に強かった帝国貴族の分家で、今は帰る場所もない。だから」
そ、と彼女の目がこちらを見た。ぞわりと冷たいものが背筋を這う。
見目に恐怖を覚えたわけではない。雰囲気に気圧されたわけでもない。
ただ、その赤い目の奥に吸い込まれてしまいそうだったから。
「今殺しておかなきゃ、自爆してでも、貴方を殺すよ」
「…………」
少女の倒れ伏していた地面は、歪な魔法陣が描かれている途中だった。
これが完成していたら今頃どうなっていたのか分からない。
彼女の言おうとしていることはわかっている。
確かに自分は恨まれる立場にあるのだろう。彼女の言うことが本当で、少女が元帝国貴族だというのならば恨まない理由がないほどに。
暗殺依頼というのもひとつやふたつあって当然だ。自分は戦争の立役者で、皇帝を殺した張本人。ディミトリを面白く思わず、その殺害を狙うものがいるのはなんら不自然なことではない。
だが、それでも。
「……助けてくれたことには礼を言う。だが、殺さずとも……」
「それを、貴方が言っちゃうんだ」
「…………」
言い返せなかった。
自分が復讐に捕らわれていた時のことを言われているのだとわかってしまったから、言える言葉をなくしてしまった。
言い澱むディミトリの姿を見て女は目を細める。
「でも、いいよ。貴方は悔いなくていいし、私をよくないものとして断罪していい」
「……何?」
「貴方は何も知らなかった。私は依頼を受けてこの子を殺した。それだけ」
「依頼? お前は……」
「私は、」
剣から手を離し、彼女は両手を広げた。
その裾口には武器が忍んでいる様子もない。目に見える範囲で彼女の武器となり得るものは少女に突き刺さる剣だけ。
まるで敵意など持っていないと示すような顔で、彼女は言う。
「私はクリスティア=ラグランジュ。貴方を暗殺しようとするものを殺せと依頼された、ただの女」
女──クリスティアは微笑んだ。
それから彼女は剣に手をかけ、それを少女の喉から抜いた。此方に向かってくるかと身構えたが、彼女は踵を返す。
少女からどろりと流れた赤色は致死量を超えているだろう。指先はすでに生気を失っていた。絶命、している。
「捕らえろ、って。命令しないの」
「……お前が俺を助けたのは、事実だろう」
「んふふ。そういう律儀な人、私大好き。まあでも多分、今はそうしないのがディミトリ王のためでもあるから、それでいいよ」
ちらとこちらを見る瞳の赤色は熱を灯している。あの冷えた赤は見間違いだったのだろうか。
ディミトリのためでもある。
その言葉の真意を捉えることはできないが、この場にいる誰もが彼女を捕らえるべきだと声を上げることはなかった。
それはディミトリを助けられたという恩義から来るものなのかもしれないし、或いはこれだけの目撃者と名乗られた名前がある以上逃げられるはずがないという自信からなのかもしれない。
ただディミトリは、ディミトリだけは。
「──もしも殺しの依頼があったらお受けするね、ディミトリ王。クリスティア=ラグランジュをどうぞ、よろしく」
彼女が必要になるかもしれないという未来のために、それを口にしなかった。