そして世界は動き出す
久方ぶりに入った義兄の部屋に抱いた印象は、「女の子に好かれそうな部屋」だった。
決して物が少ないわけではない、かと言って汚く散らかっているわけでもない、小奇麗な部屋だ。
多くの「女の子」はこの部屋に好感を抱くだろう、とエヴァは思った。実際にエヴァもそう思う。
部屋の様子に見惚れているエヴァをシルヴァンは中へと案内した。
本当は部屋の中にまで入るつもりはなかったのに、と足が止まったが、シルヴァンが不思議そうにこちらを見るものだから申し訳なくなって部屋へと踏み込んだ。
シルヴァンはそれを見届けて寝台へと腰かけた。やけに端に座っているのは、そこに座れという無言の指示なのだろうか。なんとなく申し訳がないから、結局立ってシルヴァンを見下ろすことにしたが。
甘い匂いがする。女性ものの、香水の匂い。
「それで?」
匂いに気を取られるエヴァを知らず、シルヴァンが口を開いた。咎めるようでもないその物言いに思わず一瞬目を瞬かせてしまう。
その言葉が自分に向けられているのだと遅れて気づいてはっとした。……自分が嫌に卑屈になっていることを自覚する。
シルヴァンはエヴァを見てエヴァの言葉を待っている。大したことではないのにと、言いづらさを感じてしまう。
けれども何も言わなければ状況は滞ったままだ。言いづらさを飲み干して口を開いた。手に持っていた贈り物を、シルヴァンの方へと差し出しながら。
「……こんなことで邪魔をするなと思われるかもしれないけれど」
「?」
「……お誕生日おめでとう、シルヴァン兄様」
言えた。
心からの言葉をようやく言えた気がする。そういえば昨年は、きちんと祝っていなかっただろうか。
手元にある贈り物はこの日のために用意したものだ。彼が喜んでくれるかはわからないが、そのために何日か悩んだ。喜んでくれなくても渡すことに意味があると思うのは思い上がりだろうか。
顔をあげてシルヴァンの顔を見る。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのか呆気にとられたような顔をしていた。
出過ぎた真似だっただろうかという不安が去来する。きっと彼は拒まないだろうとわかっていたが、それをよく解釈しすぎた傲慢だっただろうかと心が陰る。
早くこの部屋を出た方がいいのだろうか、この香水の匂いの主は先ほどの女中だったのだろうか──と思案し始めたその時、手元の贈り物が自分の手の中からなくなった。
「……兄様?」
手から消えた贈り物はシルヴァンの手の中に。小包を興味深そうに見ているシルヴァンの瞳には、あの女中を見送ったときのような冷たさはない。
喜んでくれているのだろうか。エヴァにその判別はつかなかったが、少なくとも嫌な顔をされていないことにほっとする。
小包をしげしげと見ていたシルヴァンの茶色い瞳が、今度はエヴァの方を向いた。
「俺に、か?」
「に、兄様以外に誰にあげるって言うの」
「あーいや、それはそうなんだが……そうか、エヴァが俺に、ね」
意外だった、とでも言いたいのかその声は驚きを隠せていない。しかしやはり、嫌がっている様子は無かった。
それどころか、少し嬉しそうにすら見える。……これが、思い上がりでなければいいのだけれど。
開けてもいいか、と尋ねられて思わず首を振った。彼が嫌がるようなものを渡したわけではないが、イングリットに相談して決めたこれが今目の前で開けられるのは恥ずかしい。
さすがに否の返答が来るとは思っていなかったのか、シルヴァンは少し驚いていた。それでもやはり恥ずかしいものは恥ずかしいので、エヴァは断固として拒否をした。
「……恥ずかしいのよ、こういうの慣れていないから。だから、その……出ていくから、その後に開けてちょうだい」
「ああ、そういう……何か不味いものでも入ってるのかと」
「私が兄様にそんなものを送る理由がないでしょう……、……それだけなの、本当に。じゃあ、私はこれで……」
「だから待て待てそんな早くに退散しようとするなよ、俺からも話があるんだって」
「……話?」
いったいなんだと言うのだろう。
どことなく真剣な色を孕んだ声音にエヴァの背筋が伸びた。しかし、何か重大なことがあるような記憶はない。どういう心持でその話に挑めばいいのか分からず、エヴァはその場に足を縫い留めるしかない。
どこか言葉を選ぶように視線を落とすシルヴァンを見て、またしても漠然とした不安が襲ってきた。
……この人はいつもそうだ。
自分のことで手いっぱいのはずなのに、エヴァのことになるといつも言葉を探している。
初めて出会ったあの日も、「ゴーティエ」を名乗った自分に「ゴーティエ」を名乗り返していいのか迷っていた。
両親が没したと報告をくれたあの日も、出来るだけエヴァが落ち込まないようにと言葉を探してくれていた。
血の繋がらない義妹に、道具でしかないエヴァという存在に、そんなに気を使わなくてもいいのに、どうしてそこまでしてくれるのだろう。
エヴァにはそれが分からなかった。分からないが──好意から来るものであればいいな、と思う。
言葉を選び終わったのか、或いは言葉を選ばずに率直に言うことを決めたのか。
シルヴァンはエヴァを手招きし、己の横に座らせようとする。断るのもなにか違う気がして、エヴァはそれに従った。
「今から俺が言うことは……お前の人生ってやつを多少は変えることになるかもしれない」
「え……」
「ああいや、そんな神妙なモンじゃあねえけどな。でも、お前は俺と違って『選べる』。だから、お前が選んでくれ」
「選ぶ……」
「俺としてはここにお前を一人置いておきたくはないんだけどな、エヴァ」
何を言おうとしているのか。
兄のいつになく真剣な瞳に目を奪われた。それを『何を真剣な顔をしているのか』と茶化すような軽薄な女の子にはなれない。
だから、エヴァはシルヴァンを見つめ返した。彼と同じように、真剣な顔で。
シルヴァンはそれを準備完了と取ったのか、ゆっくりと口を開いた。
「──俺は来年、士官学校に行く。わかるか、士官学校」
「……ガルグ=マク大修道院の中にある学校ね、わかるわ」
ああ、と肯定が返ってくる。
ガルグ=マク大修道院というのは、このフォドラの大地の中心に存在する『セイロス教』の修道院のことだ。そこにはセイロス教の大司教が存在し、セイロス教が抱える騎士団もある。
そしてその中の一角に、全寮制の士官学校が存在する。
士官学校は国籍や身分に関係なく在籍することが可能で、入学した生徒は一年間勉学に励むことになる。
シルヴァンは来年その生徒になる。正しくは、そのために勉強をしている最中だ。女癖の悪さは変わっていないが、彼はそもそも地頭が良いので問題ないだろう。
そしてそれはシルヴァンだけではない。
「イングリットもフェリクスも……ディミトリ様も。来年の士官学校に入学するのよね」
幼馴染たちは皆、そのために学んでいる。
王子たるディミトリが学校に入学すると言うのなら、それに仕えるべきイングリットやフェリクス、そしてシルヴァンがそれに倣うのは道理だろう。
……最近、ディミトリと不仲にも見えるフェリクスもというのはなんだか不安があるが。
そして、その中にエヴァの名前はない。
当然と言えば当然だ。このゴーティエの嫡子はシルヴァンであり、エヴァは彼に何かがあったときの代替品。
逆に言ってしまうなら、シルヴァンに何かが無ければ必要がない存在。
そんなエヴァが、ディミトリについて士官学校へと入学する必要はない。義父もそう判断したのか、士官学校に関しての話は一度も聞いたことがなかった。
「……ここ数節考えてたんだけどな、エヴァ」
「?」
「この屋敷にお前ひとりを置いていくのは、ちょっとな」
また真剣な瞳で射抜かれる。きっとこの目を、『女の子』たちは見たことがないのだろうな、と余計な思考が脳裏をよぎった。
いつも『女の子』の前で浮かべている軽薄な笑みはここにはない。ここにいるシルヴァンは、確かに『兄』の顔をしている。
それがどうしてかとても温かく思えた。死した母からすらも貰えなかった温度がここにあるとすら錯覚した。
「来年の士官学校、お前も来るか」
思いも寄らない言葉だった。自分がそこに行く未来を思い描いたことすらなかった。
けれど、今それを思い描こうとすることは苦痛ではない。イングリットがいる、フェリクスがいる、ディミトリがいる、そして──シルヴァンがいる。
そんな学校に自分がいられるというのなら、それはなんと幸福なことなのだろう。
そして、世界は動き出す
(訓練で怪我をする貴方達のために、白魔法を勉強し直した)(長柄で戦う貴方達の隙間を埋めたくて、格闘術を習い直した)
(真逆の戦い方、だってのにな)(──ほんと俺に似て地頭がいいんだよな、エヴァ)