エヴァ=リディ=ゴーティエの一歩目
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ここのところ、義兄……シルヴァンの女癖に拍車がかかった気がする。屋敷で知らない女性を見ることが増えたし、知っている女中らが私情として次々に屋敷から去っていくのも恐らくはその関係だろうと推察できる。
いつ頃からそうなったかも把握していた。彼には元々女癖の悪さがあったが、それが酷くなったのは、……考えるまでもない。
(……マイクラン兄様の廃嫡から)
エヴァにはもう一人の義兄がいる。マイクランと言う名の義兄だ。
彼は「ゴーティエの小紋章」を持たず生まれ、それはゴーティエにとって重大な欠陥とされてしまった。
ゴーティエの家にとって紋章は重要な役割を果たすものだ。それがあるからこそエヴァは母に重すぎる期待を寄せられ、またこのゴーティエの家の一員となることが出来た。
多数の人間の運命を大きく変えてしまう、それが紋章だ。それは保持者と同じく、非保持者にとっても。
マイクランは紋章を持たない。それをゴーティエは厭い、長男であり嫡子であったはずのマイクランを廃嫡した。
その後マイクランは屋敷を出ていく。風の噂では盗賊団の頭領をしていると聞いたが定かではない。……少なくとも、今の彼は「貴族ゴーティエ」の人間としては扱われていないのだろう。
空席になった嫡子の椅子はシルヴァンへと明け渡される。今やこのゴーティエの嫡子はシルヴァンになっていた。
そしてその頃から、彼の女癖はひどくなっていった。
その理由は、何となくわかっている。
(……未来のあの人に自由なんて、ないもの)
自分の思考にちくりと胸が痛んだ。
未来のシルヴァンに自由はない。彼はきっと誰かが決めた見知らぬ相手との婚姻を言い渡されるのだろう。
それはゴーティエのため、そしてファーガス神聖王国のため。紋章持ちの子を作り、英雄の遺産の後継者を作り、そうしてこのファーガスを守るため。
嫌という程理解している。このゴーティエの一員になるために覚えたくもないのに覚えた。
……彼がそうできなかった場合の代替品であるという自覚だって、ある。彼がそうできなかった時にそうなるのは自分だということの自覚すら。
シルヴァンは、きっと今ある不自由の中の自由を謳歌している。分かっているから、エヴァはそれを邪魔したくない。
けれど。
今日は少しだけ、ほんの少しだけ、こちらから彼に話しかけたかった。
普段は遠慮をしてエヴァから彼に話しかけることはないが、今日はその殻を破って彼にほんの少しだけ伝えたいことがあった。
(……だけど……、)
エヴァの手が戸を叩く寸前で止まる。
今エヴァはシルヴァンの部屋の前にいた。その手に彼へのささやかな贈り物を持って。
しかし、何となくその戸を叩く勇気が出なかった。
中で彼が誰か女性と楽しく話をしていたら邪魔になってしまうのでは、という考えが頭を掠め、離れてくれない。
きっとシルヴァンはそれも、曖昧な表情ながらも許してくれるのだろう。けれど、これ以上自分が「ゴーティエ」に迷惑をかけるのが嫌だ。
迷って迷って迷った挙句、エヴァは踵を返すことを選ぶ。この贈り物は、また今度彼に会った時にでも──。
「エヴァ?」
「はっ?」
振り向いた先から声がした。顔をあげ、声の主を見ればそこにいたのは見慣れた朱色。
それが誰であるかを認識したエヴァは、思わず出た間の抜けた声を誤魔化すように一つ咳払いをして姿勢を正した。
「しっ……シルヴァン兄様……」
「なんでこんなところに」
それは、貴方に誕生日のお祝いを──と言葉を紡ぎかけて飲み込んだ。シルヴァンの隣にいる女性が目に入ったからだ。
屋敷の女中だ。前々からシルヴァンに愛想を振りまいていた女中で、エヴァは彼女によく思われていないと認識していた。尤も、この屋敷の中でエヴァを真っ当に見てくれる存在などシルヴァンくらいしかいないのだが。
女中の目がこちらを見ている。咎めるような、或いは邪魔者を見るような鋭い視線に、エヴァは視線を落とす。
いたたまれなくなって、そのまま足を進めようと──。
「おいおい待て待てエヴァ、せっかくお前自らお出ましなんだ、何も逃げることはないだろ」
「そ、その……急用じゃないの、本当よ。だから私はあとででも……」
視線が泳いだ。泳がせるつもりはなかったのに、自分の心は誤魔化しきれない。
そしてそれを見逃してくれるほど、シルヴァンは冷酷でもなかった。
シルヴァンが女中の方へと視線を移す。目に映された女中はにこりと見事な笑みを浮かべていたが、その笑みが薄っぺらいものだと認識しているのは恐らくエヴァだけではないのだろう。
「悪いね美しいメイドさん。俺は今からエヴァと二人で話すから、今日はこの辺で」
「し、シルヴァン兄様……!」
一瞬女中の冷たい目がこちらを向いた。しかし、それ以上エヴァに牽制をしてもシルヴァンに抗議をしても意味がないと悟ったらしい女中はわかりました、と一礼してから去っていった。
その背を見送るシルヴァンの目は、どこまでも冷たい。
あの女中の目は、エヴァに「邪魔をするな」と言っていた。きっとシルヴァンに媚びを売ろうとしていたのだろう。
そして恐らくはシルヴァンもそれを理解していた。理解していたのにエヴァとの会話を取ったその行動が、エヴァには少し温かく思えた。
「……中入ろうぜエヴァ、誰かに邪魔されちゃあ萎えるだろ」
「あの、でも私本当に……」
有無を言わさず、シルヴァンに手を優しく取られ引かれる。抵抗する気は起きなかった。
エヴァ=リディ=ゴーティエの一歩目
(この部屋の先で、兄様は私の運命を変えてしまう)
(──なあ、エヴァ。お前は俺の女遊びを俺の自由のためだと思っているかもしれないが)
(本当は──、)