幼馴染との邂逅
「シルヴァン! いくら会合前とはいえ、女の子を口説くなんてどういうことなの!」
齢十の頃。定期的に行われる、ファーガス神聖王国王城での会合後にて。
シルヴァンは久しぶりに会った──といっても年単位の話ではない──幼馴染のひとり、イングリット=ブランドル=ガラテアに詰め寄られていた。それも、身に覚えのないことで。
女の子を、口説いた。
口の中でそれを何度か反芻しても覚えはない。確かに普段は女の子を見れば女の子を口説きまわるシルヴァンだったが、今日に関しては本当に覚えがなかった。会合前はそれどころではなかったし。
それでもイングリットは攻め寄る姿勢を崩さない。一体なんなんだ、とシルヴァンはため息を吐き出した。
その態度がイングリットには不誠実なものだと捉えられてしまったのだろう、更に彼女は語尾を強める。
「もう! 普段ならともかく、今日は会合の日なのよ! どうしてあなたはいつも──」
「待て、頼むから待ってくれイングリット」
覚えはない。ないが、このままそれを言い続けたとしてイングリットは納得しないだろう。
ならば、とシルヴァンは会合前のことを思い返す。何か、思い当たるようなことはあっただろうか。
今日の会合はエヴァが初めて同行を許された。といっても、会合の席に座る訳では無い。ただ共に、王城に来ることが許された、と言うだけの話だ。それでも彼女が妹になった二年前から思うと随分な進歩なのだが。
同行したエヴァは、会合の時間は従者──という名の見張りだ──を一人つけ自由にしておけ、と命じられた。どこに行くのだろう、と疑問に思うシルヴァンに、エヴァはこっそりと尋ねてくる。
『兄様、訓練場の場所がどこかわかる?』
お転婆なエヴァらしいな、と苦笑したのを覚えている。
エヴァは書庫で本を読むよりも、部屋で休息するよりも、訓練場で体を動かすことを選んだ。愛らしい服装に身を包んでいるというのに元気なものだ。
何度か王城に足を運んだことがあるシルヴァンは勿論訓練場の場所を知っている。故にエヴァを案内して──そこで会合の時間になった。
会合前の行動はそれだけだ。やはり思い当たる節は、とそこまで考えて。
あ、とシルヴァンは声を漏らす。イングリットが不思議そうにこちらを見ていた。
「……なぁイングリット、俺が口説いていたその女の子って言うのは……赤髪だったか?」
「ええ、そう。赤髪で、可愛らしい服を着た、小さい女の子」
「ああー……」
「なによ?」
納得した。イングリットは、シルヴァンがエヴァを口説いていると認識していたのだろう。そう言えば義妹が出来たという話はぼんやりとしかしていなかったはずだし、エヴァを紹介したことなど一度たりともなかった。
合点がいってシルヴァンは大きく息を吐き出した。きちんと説明しなかった自分も自分だが、早とちりしたイングリットもイングリットだ。
「な、なんなのシルヴァン、私はまじめに……」
「ちゃんと説明するから……訓練場行くぞイングリット」
「ちょっと……!」
「フェリクスにも言っとくべきかな……、あとは……」
「フェリクスは訓練場だよ、シルヴァン」
「え、……殿下!」
二人の後ろから聞こえてきたのはよく知った声だった。シルヴァンが振り返ると、そこにいたのはこのファーガス神聖王国の次期国王となる少年がいる。
ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド。かつて英雄の遺産を扱ったフォドラ十傑の一人、ブレーダッドの血を引きファーガス神聖王国を統治するブレーダッド家の子。
獅子王と称されたその人の子孫は、流れるような金の髪と、雪溶け水のような青い瞳を携えた可憐な見た目をしていた。……初めて見た人には女の子と勘違いされてしまいそうな程に。
そうだ、殿下にも紹介しておかなければ──とシルヴァンの思考が及んだ時、ディミトリの言葉が脳内で反響した。
血の気が引く。
「……え、今殿下、フェリクスは訓練場だって……」
「あぁ、そうだよ。さっきグレンと一緒に。おれも行こうと思うんだけど……」
嫌な予感がした。
別に幼馴染のことを疑う訳では無い。彼の兄もついているのならば尚更。だからこそ──面倒事が起こりそうだ。
そこまで考えるより先にシルヴァンの足が動きかけた。何とかそれを地面に縫い止めると、一度きちんとディミトリとイングリットに向き直る。
「……ちょっと俺、先に訓練場行ってくるんで!」
「シルヴァン!?」
それだけ言うと脱兎の如く駆け出した。後ろでイングリットとディミトリの慌てる声が聞こえ、それからすぐに自分の後ろをつける足音へと変わる。
(……頼むから、怪我とかしないでくれよ双方……!)
焦燥が足に絡みつく。油断すると転んでしまいそうになるのをなんとか耐えて、シルヴァンは走り続けた。幼馴染が向かったはずの訓練場へ。
──父と自分以外のゴーティエの人間からよく思われていない=A義妹の元へ。
†
嫌な予感というものは得てして当たるものだ、とシルヴァンはこの日学習した。
木材で出来た剣が地と擦れる音がする。少年によって振り上げられたそれは、目の前にいる相手を切りつけるために向けられたものだと傍目にも分かった。
が、それは宙を切るにとどまる。相手が──エヴァがそれを後退し躱したからだ。
何が起こっているかは明白だった。
遅れて追いついたディミトリとイングリットが横に並ぶ。その光景に驚いたのだろう、イングリットが目を丸くしたのが視界の端でもわかった。
「……フェリクス!? それに、あの子は……」
「女の子……? 年はおれ達とあまり変わらないようだけど……」
後退によってエヴァの姿勢がほんの少し崩れた。それを剣使いフェリクス=ユーゴ=フラルダリウスは見逃さない。
蹌踉めくエヴァに追撃を叩き込もうとフェリクスが駆け出した。
このままでは彼女があの剣に打たれることは嫌でもわかる。いくら木で出来た訓練用の剣とは言え、怪我をする──あるいはさせるのは容易だ。
それは、いけない。
幸いな事にフェリクスとエヴァの距離よりも、エヴァとシルヴァンの距離の方が近い。
それを認識するよりも先に、間に合うかどうか思考するよりも先に、シルヴァンは駆けていた。
後ろでディミトリが名前を呼んだのが聞こえる。イングリットの手が己の服を掴みかけたのを感じる。──それでも。
思い切り、エヴァの手を引いた。自分の方に倒れ込むように。
自分も走っていて体勢を整えられたわけではなかったから、力に従って己の体も後ろへと傾く。エヴァの肩越しに見えたフェリクスが驚いているような気がした。
そのまま流れに任せる。
物が落ちる力に従って、体が後ろへと倒れていく。腕にはエヴァを抱えて。
背に衝撃が走る。痛くないとは到底思えない痺れが体中を駆け巡った。
「〜〜〜ッ!!」
「え……あ、シル──」
「じゃまをするな、シルヴァン!」
フェリクスの怒号が飛ぶ。それは訓練を邪魔された、と言うだけの怒りではないように思えた。彼は剣の上達を目指しているが、それだけでここまで敵意と怒りを向けることは無いだろう。
彼の声に反応してエヴァが肩を揺らす。その姿は困惑と、少しの恐怖が入り交じっているようにも思えた。
そのようなエヴァの姿に、フェリクスは気が付かない。声を荒らげ、エヴァへと敵意を剥き出しにしている。
「そいつは、この会合の日に王城へと忍び込んだ不審──」
「違う!!」
「──……っ!?」
シルヴァンの喉から大きな声が出た。腹の底から湧き上がるような声だった。自分でもこんな声が出るとは思っていなかったために、しばらく驚いて頭が回らない。
エヴァがこちらを見上げている。これ以上怯えさせてはいけない、とシルヴァンは二三度息を吐き出した。頭の中が明瞭になった、気がする。
「なぁ、フェリクス。お前、どうしてこの子が不審者だって思ったんだ」
「……? それは、
「……嵌められたか」
「?」
盛大な舌打ちが漏れそうになって、エヴァの前だと我慢する。一番理不尽を被ったのはエヴァでありシルヴァンでは無いのだから、彼女以上に怒ってはいけないだろう。
フェリクスは変わらずこちらを見ている。向けていた敵意は薄れていた。恐らく、シルヴァンの様子を見て疑問に思うことがあったのだろう。
「ご……ごめんなさい、私、その……」
「……いや、お前は悪くない。先にお前のことを紹介しておくべきだった、父上が付けたやつだから大丈夫だと思ってた俺が甘かった。……フェリクス、グレンは?」
「そいつと一緒に王城の警備を呼びに……」
「……あぁ、」
全て計算済みだったか、とシルヴァンは歯噛みする。
付き人は、エヴァを嵌めた。それはシルヴァンの目から見ると明らかで、全てを知ればこの場にいる皆がそう思うだろう。
エヴァが侵入者などではないことは付き人がよく知っている。シルヴァンの父は、むしろエヴァがそう勘違いされないために付き人をつけたのだろう。
だが実際はそうならなかった。フェリクスの言うことを信じるのならば、付き人はエヴァを不審者だと言ったことになる。
そしてそれは、恐らく真実だ。フェリクスが嘘をつく理由がない。
エヴァが不審者だ、と付き人が言ったならば、フェリクスは──ゴーティエに仕える人間だからと──信じるだろう。そしてその不審者を捕らえるように動くことも想定される。
グレンはもしかすると疑うかもしれない。だから邪魔しないように、付き人はグレンと二人で王城の人間を呼びに行ったのだ。
その間にフェリクスがエヴァを傷つけたなら幸いだと。逆にエヴァがフェリクスに傷をつけたのなら、「貴族フラルダリウスの子に傷をつけた」とエヴァを追い詰めることが出来ると。
そこまで計算して、付き人はフェリクスにそんな嘘を吹き込んだのだ。
エヴァは、自分と父以外のゴーティエの人間によく思われていない。兄たるマイクランが最たる例だ。
理由は簡単だ。二年前、突如として現れた「ゴーティエの跡を継げる少女」は、邪魔だと思われているのだ。
極端な話、それまではシルヴァンだけに媚びを売っておけばその後は安泰だと──シルヴァンの考えを度外視しているが──思われていた。
しかし、エヴァが現れたことによりそれは揺らいだ。シルヴァンに取り入ろうとしていた女達は、同性であり跡を継げるかもしれないエヴァを怨んだし、男達は彼女に気にいられようとしたり、或いは彼女を自分の好きにしようとした。
故に、彼女は悪意に晒され続けた。自分が守れるならば守るが、全て守れる訳では無い。現に、今がその状態なのだ。
紋章などなければ、このようなことは起こらなかったのだろうか。考えても答えなど無いのだが、だからこそ考えてしまう。
腸が煮える感覚を覚える。父に後で進言しなければ、とシルヴァンは小さくため息をついた。恐らく、彼女はこのことも何も言わないだろう。
立てるか、と声をかけエヴァを立たせる。申し訳なさそうにしている彼女が気の毒に思えた。
そのままシルヴァンも立って、三人に向き直った。フェリクスは相変わらず意識を尖らせているが、イングリットとディミトリはその先の言葉を待っているようだ。
シルヴァンはもう一度息を吐き出し、エヴァの背中に手を添えた。
「……エヴァ、挨拶を」
「……うん」
その瞳は、きちんと彼らを写しているのだろうか。後ろから支えることしか出来ないシルヴァンに、その様子は見えない。
けれども、声はしっかりと芯が通っているような気がした。
「エヴァ=リディ=ゴーティエ……、にいさ、……シルヴァンの
「いっ……!?」
二年前、初めて名乗ったあの日より、彼女にその姓が馴染んでいるように思える。
それは彼女がその名を名乗ることに慣れたからか、或いはシルヴァンがそれを享受できるようになったからなのか、シルヴァンに判別はつかなかった。
あれ、とシルヴァンがエヴァを見る。不思議に思ったのはシルヴァンだけではなく、ディミトリもだったらしい。
「……えっと、エヴァ……。おれのことはともかく、イングリットとフェリクスは名乗ってない、はずだけど……」
「兄様が、よくお話してくれた……んです。幼馴染が三人いて、その名がディミトリ様、イングリット様、フェリクス様だと。……特徴から、そうかと思いまして。それに、兄様もフェリクス様の名前を呼んだでしょう?」
あの状況でよくそこまで思い出し把握したな、とシルヴァンは苦笑する。この頭の回転の良さは成程、自分とよく似ている、と思った。
ちらとフェリクスを見る。驚いてはいるものの、信じていない様子ではない。シルヴァンの必死な様子が、彼にそれを信じさせるには十分だったのだろう。
「じゃあ、シルヴァンがこの子を口説いていたのって……」
「エヴァの前でそういうこと言うのやめてくれねえかなぁ……口説いてないって」
イングリットの方も納得してくれたようだ。
こんなことになるとは思っていなかったので仕方ないとはいえ、本当にもう少し早めに紹介しておくべきだった。そうすれば自分はイングリットにあらぬ疑いをかけられることもなく──シルヴァンの口説き癖は事実だが──、またエヴァがこんな策謀にかけられることもなかったのだろう。
エヴァは今日初めてこの場にいることを許されたのだから仕方ないのかもしれないけれど、もっと頭を使って彼女を危険から遠ざけるべきだった。
はぁ、とまたため息をつく。エヴァから手を離して、イングリットの方を見た。確認も取らずにシルヴァンを攻めたことを恥じているのか、イングリットはバツが悪そうな顔でこちらの様子を伺っている。
別にそんな顔をさせたいわけじゃないんだけどな。独り言を心の中で零してから、なるべく「いいお兄ちゃん」の顔でイングリットに声をかけた。きっと、
「ちょっとうちの使用人のことで父上のところに行ってくる。……イングリット、エヴァのことを頼めるか?」
「わ、わたし?」
「ああ。……こいつは箱入り娘ってやつでね、こうやって外に出たのも随分久しぶりだから……友達になってやってくれないか」
「に、兄様……、私……」
ずっと、それが気がかりだった。自分とて彼女に優しくしたり遊んだり学びの機会を与えたりしない訳では無い。
だが、それはどうしても兄妹の物になってしまう。別の出会い方をしているのならともかく、義理であっても兄妹として出会ってしまったから。
だから──だから出来るならば、自分が信用を置けると思っている幼馴染に、エヴァの友達になって欲しかった。
フェリクスやディミトリにもそうなって欲しいが、まずは同性からの方が親しみやすいだろう。ディミトリは王族だし、エヴァの方が気後れしてしまうかもしれない。
エヴァはいいのか、とおろおろしている。今までは外の人間──特に貴族との接触は徹底的に避けるように言われていたから、その言いつけを破ることに戸惑いを覚えているのだろう。
そんな彼女の身の上などイングリットは知る由もないが、それでも優しく笑って、エヴァに語りかけた。
「わたしはイングリット=ブランドル=ガラテア。よろしくお願いしますね、エヴァちゃん」
「……! ……エヴァ、エヴァでいいです、イングリットさん」
「そう? ならそうさせてもらうわね、わたしもイングリットで構わないわ。シルヴァンがお兄ちゃんだなんて、大変だと思うけど……わたしでよかったら、いつでも相談に乗るから」
そこで俺を下げる必要あるかな、と喉に出かけた言葉を飲み込んだ。彼女らが仲良くしようとしているところに水を差すのはやめておく。
イングリットの視線がこちらにむく。わたしは大丈夫、と言うような目を見て安堵を覚えた。
喧嘩のような撃ち合いをしたフェリクスに、王族たるディミトリとは仲良くやれるのだろうか。一抹の不安を覚えたが、恐らくはイングリットがよくやってくれるだろう。
その不安が杞憂だったと知るのは一日後の話で、明日には彼女らは仲良くしていると、今のシルヴァンは知らない。
シルヴァンは父の元へと歩み始めた。エヴァを陥れた者を、告発するために。
ああ、柄じゃない。
こんなことをしたって、エヴァが本当に救われる訳では無い。むしろ嫉妬やもっと大きな醜いものを呼び寄せてしまうこともあるのかもしれないけれど。
(──それでも、俺は。──俺が。)
自分が、守るのだ。きっと幼馴染達も、味方してくれる。
泥のような澱みが胸の奥に溜まる感覚に、シルヴァンは顔を顰めた。
フェリクスを誑かしエヴァを嵌めた付き人は、その日解雇されることとなる。他ならぬ、シルヴァンの告発によって。
幼馴染との邂逅
(紋章なんてなければ、と思うこともある)(けれど、紋章がなければ皆と出会うことも無かったのだろう)