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10

 落ち着かない。
 胸中のざわつきを鎮めるために訓練場に来たものの、やはり訓練するような気分になれなくてエヴァはその片隅にある椅子に座った。

 あの後暫くを普通に過ごし、ハンネマンのところから帰ってきたベレトと二三の言葉を交わした。だが、彼の内にある紋章は未だ詳しいことは分からず、どうやらその解明のために呼ばれたのでハンネマンに好き勝手されていたらしい。
 表情が薄く読みづらいベレトだったが、なんとなく疲労の色が全身から出ていたようにも思う。あの人間的でない人にも疲労を感知する機能が備わっているのだなと思うとなんとなく親近感が湧いた。それを自覚しているかどうかは別として。
 が、そんなことはさして重要ではなかった。

 ベレトの身に宿る、紋章学の父ですら見たことの無い紋章。それがどうもエヴァには小骨のように引っかかる。
 見たことがないのだからまさか自分たちと同じゴーティエの紋章などであるはずはないが、それでも何かざわざわと胸が騒いで落ち着かないのだ。
 例えばそれがゴーティエに連なる者の紋章だったとしたら。その時は自分がお役御免になることは考えずともわかったし、そうなった時に自分の身がどうなるのかも分からない。
 例えばそれがゴーティエには何ら関係の無い未知の紋章だったとしたら。その時は今まで自分たちが信じていた世界の基盤が揺らぐ事にほかならず、やはり未来の不安定さに恐ろしい気持ちを抱えてしまう。


(……何か、変な気持ちね……)


 内心の荒ぶりを抑えるように拳を胸元できゅっと握った。そんなことをして落ち着くものでも無く、諦めたようにため息をつく。
 杞憂ならばいい。その時はあの不安はなんだったのだと笑い飛ばせばいいのだから。だが、この不安がなにかに繋がるものだったら。そう思うと素直に心を休める気にも、あるいは身体を動かして発散する気にもなれなかった。
 とは言っても空は暗み始めている時間だ。外出が禁止されていないとはいえ、夜が深くなればなるほど寮に戻るのも億劫になだろう。適当なところで区切りを付けて帰るべきだろうか。それでもな、と息を吐き出す。
 不意に、視界の端に影が動いた。


「……あら、貴方は」
「……っ?!」


 赤い外套が揺らめく。はっとして顔をあげれば、そこに居たのは色素の薄い髪を持つ少女だった。

 今度はわかる。忘れるはずもない。
 あの課外活動の日に自分にディミトリの命令を優先して動くよう進言してくれた人。
 アドラステア帝国の皇女にして、黒鷲学級アドラークラッセの級長。エーデルガルト=フォン=フレスベルク。

 何故彼女がこんなところに。付き添いでいるはずの従者は近くにいない。どういう対応をするべきなのだろうか、自分が間違えればファーガスそのものの損失なのでは──。
 様々な考えが一瞬で脳裏を駆け巡り、しかしこのままでは不敬にも程があると思い直す。勢いよく立ち上がろうとしたが、エーデルガルトはそれを手で制した。


「固くならないで。取って食おうというわけじゃないわ」
「そうは仰られましても……」


 身分的にはディミトリとそう変わるものでも無いはずだが、ディミトリは昔からよく知った仲だ。対して彼女は課外活動の日に始めて顔を合わせたし、何ならあの時の礼を再び述べることすら叶っていない。そんな諸々を鑑みると立たずにいろという方が無茶なのだ。
 どうしても立とうとするエヴァを見かねたらしいエーデルガルトが小さく「仕方ないわね」と息と共に零した。それから、エヴァの隣へと腰掛ける。


「え、エーデルガルト様……!?」
「誰か使う予定だったかしら」
「いえ、そういう訳ではありませんが……」
「そう。なら構わないわね」


 仮に誰かが使う予定だったとしても自分が立ってそこにエーデルガルトを座らせるだろう。故にそこに座られたことは何も問題ではなく、寧ろ自分が隣に座っていることがとんでもない問題のように思える。表向きは士官学校に通っている間は身分の差は無いものとして考えると言われているが、どうしたって彼女が皇女であることを意識しないわけにはいかない。
 胸を落ち着かせるために来たはずの訓練場で、別の意味で落ち着かなくなってしまったな、と頭を掠めた。元々落ち着けていたかと言われればそうでは無いのだが。そわそわと体を震わせていると貴方は、とエーデルガルトの方から声がかかる。


「エヴァ、だったかしら。青獅子学級の」
「はい。エヴァ=リディ=ゴーティエ、と申します」
「ゴーティエ? ……確かもう一人いたわね、ゴーティエ家の……」
「シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ。私の兄になります」
「そうだったの」


 エーデルガルトの薄紫がこちらを向く。ゆっくり、何かを思案するように下から上へと視線が動く。
 見られている。アドラステア帝国の皇女に。挙動の一つ一つを間違えるわけにはいかないと背筋が冷たくなった。


「どういう気分なのかしら、兄が同じ学級にいるというのは」
「そうですね……初めての場所に知った人がいるというのは、やはり心強いです」
「むず痒かったりはしない?」
「少し。でも、やはり安心感の方が強いです。……ただ、」


 喉に言葉が引っかかる。これは他国の皇女に言うべきことではない、と理解しているから。けれど、自分の感想を聞かれているのであればこのことを加味しないわけにはいかない。
 どうしたものかと逡巡していると、エーデルガルトがじっとこちらの目を見ていることに気がついた。
 探られている。値踏みされている。それがどう言った理由かは分からなかったが、どう言った意味なのかは分かる。言ってくれ、と言外に言われている。
 たまらず細く息を吐き出して、そのまま言葉を落とした。


「……兄とは、血が繋がっているわけではありません。なので、本当の兄妹としての気持ちとはまた違うものになるかと」
「血が繋がっていない?」
「私は養子です。……紋章もあるので血筋の保証はされておりますが、とても薄くて。ですから、血の繋がりのある兄妹という訳ではありません。……苦手なのですけれどね、この紋章ありきの私の在り方」
「……そう」
「……っ」


 答えを綴ったその時エーデルガルトの声音が変わった。冷たい色が乗ったのを感じ取ってエヴァは息を飲む。
 何か間違えただろうかと考える。自分にとっては養子であることも、血の繋がりがない兄妹であることも真実だ。そしてこれらにエーデルガルトが曇る要素があるとも思えない。
 ならばそれ以外の、彼女にも関係ありそうな言葉は──。


「……そういえば、青獅子学級の先生はあの傭兵の彼になったらしいわね」


 出てきそうになった答えを喉元で遮るようにエーデルガルトが言った。その声にあの冷たさは無い。
 わざと話を逸らされた、のだろうか。そう思ったものの、そちらに話を戻す勇気はエヴァには無かった。問われたことにそのままはい、と答える。


「私も彼に師事してみたかったのだけれど、こればかりは仕方ないわね。節終わりの学級対抗戦でその力を見せてもらうわ」
「……学級対抗戦……」
「エヴァ、貴方も参加するのでしょう。貴方が私の学級に編入したくなるくらいの力を見せてあげる」


 ふふ、と笑いながら言われた言葉に目を丸くする。編入、そういえばそんな制度があった。先生と合わなかったり馴染めなかったり、他のことが学びたいと思った時、出身国の学級とは違う学級に入ることを許される制度だ。
 とは言え、出会ったばかりの自分にこんなことを言うなんて。冗談を言える人なのだな、とエヴァがエーデルガルトを見て──そのまま、動きを止めてしまった。

 エーデルガルトは笑っていた。
 けれど、決して茶化すような、冗談めかすような笑みではなかった。


「また会いましょう、エヴァ。貴方とは、きっといい関係を築いていけると思うわ」


 その声音にまた冷たくて──そして昏いものが乗っていることに、エヴァの心臓は痛くなる。
 結局この日、胸中のざわめきが消えることは無かった。