ほほを伝う液体はまだあたたかい
戦争は終結した。
アドラステア皇帝、エーデルガルト=フォン=フレスベルグの死を以て。
エーデルガルトが率いていたアドラステア帝国は敗北した。
終わりをもたらしたのは、エーデルガルトが
エーデルガルトと「師」の仲は良かったと思われている。特に黒鷲学級の仲間からは。いつしかそれはすれ違い、決定的なものになり、エーデルガルトを終わらせてしまった。
誰が悪い、という話ではないのだろう。あちらから見ればエーデルガルトは侵略者であったが、エーデルガルトにとってのあちらには支配者がいたのだから。
互いの正義が、ぶつかってしまっただけ。そうして「師」は、あちら側についてしまっただけ。ただそれだけですれ違って、エーデルガルトは殺された。
戦争の被害は甚大だった。当然だ、5年と半年も戦争をしていたのだから。
特に最後の戦闘があったアンヴァル宮城は、誰も足を踏み入れることがなくなっている。
一通り掃除が終わっているようだが、故にこそだろう。今フォドラは再興中であり、この城をどうするなど考えている暇は誰にもない。
だからここには何も無い。あったはずのエーデルガルトの死体も、瓦礫も。
そんな城だからこそ、ナマエは足を踏み入れていた。玉座だったものに腰を掛け、かつてここに座っていたはずのエーデルガルトに思いを馳せるために。
「……どうして、逝かせてくれなかったの」
ぽつり、と声が漏れた。反響して、誰にも聞かれることも無く消えていく。
ナマエは生き残った。生き残ってしまった。あの悲惨な戦争を、生きてしまった。
ヒューベルトが死に、帝国派だったものが軒並み死に、エーデルガルトすら死んでしまったというのに。
最終戦の日、ナマエはあの場にいなかった。エーデルガルトの命令で、フォドラの喉元の偵察に赴いていたから。
今思えば、あれはきっとエーデルガルトがナマエを逃がしたのだろう。勝つことになろうが負けることになろうが、あの戦闘にナマエを巻き込みたくなかったエーデルガルトが、ナマエを逃がすためだけに下した命令だったのだろう。
だからこそ、どうして。そんな言葉が落ちる。
死にたかった。否、死にたい訳では無いのだけれど。
エーデルガルトと共に在りたかったのだ。最期のその瞬間まで。心身ともにエーデルガルトと生きてきたナマエにとって、当たり前で普遍的な願いだ。
エーデルガルトを守りたかった。エーデルガルトを助けたかった。それは願望であり、使命であり、当然の思いだ。
しかしそれは叶えられなかった。他ならぬエーデルガルトの手で。
そんなに頼りなかっただろうか。旧友を目にしては刃が鈍ると思われたのだろうか。様々な思いが胸中で渦を巻く。
本当はわかっている。わかっているのだ。なぜエーデルガルトがそんな選択をしたのか、わからないはずがない。
それでもやはり、口をついて出るのは同じ言葉。問いかけても返事などありはしないというのに。
「どうして、エル……」
「──……エーデルガルトは、ナマエに生きてほしかった。それは、生きとし生けるもの全ての、愛しい人に向ける願望。違う?」
「……っ!」
不意に声がして、ナマエはばっと顔をあげた。
薄緑が揺れる。温かみのある優しい色。
ナマエにとって、その色は見覚えがあった。忘れるはずもなく、そして忘れられるはずもない。
あの色は、仇敵のものだ。
人ならざるものたちを意味する鮮緑は、エーデルガルトが滅ぼさんとしたものの象徴だった。そうして、彼女はそれを持つものに殺された。
だから使用人としては、きっと目の前の人物に復讐するべきなのだろう。それが正義とも、して良いこととも言わないが、使用人として主の無念を晴らすというのは──きっと、彼女を信じついていった者たちには称賛されるのだろう。
しかしエーデルガルトがそれを望むとは思えなかった。最後の戦に巻き込ませず、自分に知らせぬまま死んでいった彼女が自分に復讐を望むとは、到底。
だから代わりに、ナマエはその声の主に声をかける。震える声を出さぬように、真っ直ぐと人影に向けて。
「……先生、何故ここに」
「いつかナマエが、エーデルガルトの影を求めてここを訪れると思っていたから」
かつかつと足音を鳴らしながらこちらに歩み寄るかの人を見て、お見通しか、と自嘲気味な笑みを漏らす。
対する「先生」は、5年前と変わらぬ顔でこちらをじっと見ていた。
先生。エーデルガルトを終わらせた人。自分たちの担任だった人。ナマエにとっては敵で、仇で、恩師である。
先生はナマエたち生徒のことをよく知っていた。エーデルガルトが起こした戦争のことは流石に感知されなかったようだが──エーデルガルトとヒューベルトの隠蔽が上手だった──、その他のことに関しては、先生自身が生徒とよく話すこともあり理解が深い。
だから理解されていたのだろう。エーデルガルトを失ったナマエが、最期の時を追想するためにアンヴァルに訪れるだろうということを。
かつん。一際大きな音が響く。
目の前に立つ先生は優しげな目でナマエを見下ろしていた。なんとなく立ち上がる気にはなれなくて、ナマエは先生を見上げる形になる。
「……私が生きていると、知っていたのですか?」
「ヒューベルトが、己の死後に自分に渡すようにしていた手紙の中に、最後の戦にはナマエは参戦しない、という話が書かれていたから」
「…………」
「フォドラの喉元の偵察をヒューベルトの案で命じた、と」
「……偵察まではあっていますけれど、きっとヒューベルトの案ではありません」
「だと思った」
本当に抜け目のない男だと苦笑する。死後に読ませる手紙を用意しているところまでは予測をしていたが、まさかそれにナマエのことまで書いてあるなんて。
自分の案で命じた、というのは嘘だろう。あのヒューベルトが急務ではないフォドラの喉元偵察をあの局面で出すはずがない。だというのにそれを自分の案だと言ったのは、恐らくナマエが逃されることを望まないと分かっていてのことだ。
あの男は、ナマエがエーデルガルトを恨まぬように、自分が汚れ役を買って出た。他ならぬエーデルガルトのために。無論、それを見抜けぬナマエではなかったが。
「……何をしに? 残党処理ですか?」
「戦意のない教え子を殺すほど、心は死んでいないつもり」
「……優しいんですね」
その優しさに救われたことも確かにあった。それはきっとエーデルガルトもだったのだろう、と思い返すと心の奥がじくりと痛んだ。
その痛みを見ないふりする。一度息を吐き出して、ならば何を、と問いかけた。まさかただ話をしに来ただけではないだろう、そう踏んでの発言だ。
そして、その読みは当たっていたらしい。
「伝えなくては、と思ったから」
「……ヒューベルトのこと?」
「いや」
緩く首を振り、否定を示す。それ以外に伝えるべきことがあったのだろうか、と疑問が過ぎる。
先生はかつん、と一歩踏み出した。そのままナマエが座る玉座の横に立って、その場に座り込む。玉座の横側に背を預けるようにして。先生の頭が目線の下に来て、今度はナマエが見下ろす番になった。
「エーデルガルトのこと」
「……エーデルガルト様の?」
「自分がいるからと、従者である必要は無いよ。……惨いことを言うようだけれど、もう彼女はいないのだから」
「……ほんとに惨いことを」
気を使うな、と言ってくれているのはわかるが、それはそれとして改めて突きつけなくても。そんな抗議の声をあげそうになったが、押し黙った。彼女を殺した、という事実を一番身をもって実感しているのは他ならぬ先生だろう。
惨さに惨さで返せるほど、ナマエは優しくはなれなかった。
「……エルは、なにを?」
「言葉ではないけれど。……ナマエ、そこから自分の首元に手を回せる?」
「回せるけれど……、……首を絞められてしまうかもしれませんよ?」
「しないだろ、君は。エーデルガルトがそれを望まないから」
「……本当に、先生って、先生なんですね」
「君らの担任だったから」
冗談のように返される。纏う空気はこの前まで敵軍同士にいたとは思えないほど柔らかなものだ。
先生に言われた通り、先生の首に手を回す。手に少し冷たい感触が伝わってきた。なんだろう、と覗き込むと、そこには小さな鎖が巻かれていた。
「……これは?」
「エーデルガルトの遺品だ」
「……エル、の」
「大事なものだから、無くさないようにと首にかけていた。本当はそれも憚られていたけれど……」
エーデルガルトは果たしてこんなものをつけていただろうか。少なくとも、ナマエの記憶の中にいる彼女は髪飾り以外のものを使っていなかった気がする。
そんなナマエの考えをよそに、先生の手が自ら鎖を外す。ナマエからよく見えなかったが、その先──つまり先生の喉元には、何か装飾品がついているように見えた。
先生が顔を半分だけこちらに向け、握りしめた鎖と装飾品をナマエに差し出した。
おずおずと手を出せば、その上に鎖と装飾品が落とされる。先生の手がナマエの手の上から退いて、掌に落とされたものが姿を現した。
どこかで見たような二つの色の石が、煌めいている。
「……ゆび、わ」
「ひと目でわかったよ、これはナマエに渡すものだと」
「どうし……、」
「エーデルガルトの目と、君の目と、同じ色の石」
そうだ。この色はエーデルガルトの目と、ナマエの目の色と同じ色だった。それが意味するところを読み解くのは簡単だ。
じわり、と目尻が熱くなる。その未来は絶対に来ないとわかっているのに、どうしても──この指輪をエーデルガルトから手渡される未来がありありと浮かんでしまって、心臓の奥がきゅっと掴まれた気分になる。
「あ……、あ、あぁ……っ」
「……この先のことは、自分には何もわからない。……けれど例えば、今のことなら。……この角度なら自分からは見えないし、誰にも見せないようにはしてあげられる。……思う存分泣くといい。自分も、そうさせてもらったから」
「ああぁぁぁーーーー……っ!! エル、エル……っ! 私は、私は、あぁぁーー……っ!!」
頬が濡れる。生の証である温もりを孕んで。彼女の温もりに触れることは永遠にないというのに、どうしてこんなにも命は残酷なのだろう。
嗚咽がアンヴァル宮城に響き渡る。それを聞き届けていたのは、無情にも仇敵たる先生だけだった。
ほほを伝う液体はまだあたたかい
(あなたの分まで生きるだなんてそんな強いこと言えないのに)(これは切ないほどに私の生命を示している)
2020.01.08 執筆
Title...王さまとヤクザのワルツ