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1-02

 数秒の静寂の後、フィシカは地を蹴り跳ねる。軽やかなその動きは、人間のそれというよりも獣──とりわけ猫のようなものに見えた。
 ルフレとクロムがそれを目で認識し、追従するように駆けだす。なんの打ち合わせもなしに走った彼女のことだ、それなりに腕に自信はあるようだが、だからと言って放置するのは忍びない。そもそも手伝ってくれ、と言ったのはルフレらの方だ。見捨てるわけにも、無視するわけにもいかない。

 フィシカの動きは、ただの盗賊のものとは思えないものだった。
 確かに、盗賊にも戦いの心得があるものもいるだろう。自分を追う兵士や騎士から逃げるために身についたものもいれば、それ以外の理由でその心得が身についたものもいる。
 しかし、フィシカのそれはそういう類のものには見えない。元々戦い慣れていたか、戦う環境にいたか、或いは戦いを見越して訓練を積んだものの動きに見える。それにしては、独学なのか、見たことがない動きを織り交ぜているようにも思えるが。

 フィシカが手を振り上げる。ただそれだけの動きに目を奪われそうになった。流れるようなその動きが、どうしても見覚えのないものだったからだ。
 そして、遅れて彼女が手にしていた短剣を投げていたのだ、ということに気づく。それを認識できたのは、異形の者たちの眉間あたりに突き刺さっていた短剣を見てからだが。


「ちっ、さすがに数が……! ごめんルフレ、クロム、打ち漏らしそっちに行ったわ!」
「任せろ! 行くぞ、ルフレ!」
「ああ……!」


 彼女に見とれてばかりではいられない。フィシカが言ったように、フィシカの短剣から逃れ動きを止めなかった異形の者がクロムたちに向かっている。
 ずっと動き続けて相手を攪乱させているフィシカよりも、幾分か遅れてやってくるクロムたちのほうが狙いやすい、と踏んだのだろう。彼らには思考が無いように見えるが、思考がない分直感的に狙いやすい方を狙ったということだろうか。

 そんな直感でこちらを狙われるとは、とクロムは苦笑を零した。対して、ルフレは小さな溜息をつく。
 クロムを直情的と表現するならば、ルフレはどちらかというと理性的だった。故に、思考を持たない者に対しての手段をどうしても一瞬考えてしまう。
 考えたところで向こうは何も考えていないのだから、こちらの考えなど意味を為さない。相手の思考を読んだところで読むべき思考がそもそも存在しないし、予測を立て実行に移したところで、それを直感的に躱されてしまうからだ。
 だからこそルフレは少しこの異形の者の相手を苦手としている。パターン化された動きを読めばそう対処は難しくないのだが、今のルフレには──フィシカが知る由もないのだが──そこまでするための勘が戻っていない。

 戦場において、そんなことを誰かが考えてくれるはずもない。ルフレのそんな考えを遮るように、異形の者の刃がルフレの眼前で振り上げられた。
 ああ、いけないね、余計なことを考えては。頭上で鈍く煌めく刃を目に映しながら、ルフレは口の中で何かを呟いた。ばちばちと、手元で雷が爆ぜる。


「──サンダー!」


 口で転がしていたのは、手に持った魔道書の呪文だった。魔道書を介して手に込めた魔力は、確かな威力を持って真っ直ぐと異形の者の胸元に向かっていく。ズドンと重い音がして、その雷は目の前の異形の胸元を貫いた。
 ごぽり、不気味な音を立てて異形の口元から粘性のある液体が零れる。ルフレはそれを血だろうか、と思考を張り巡らせたが、すぐにそれを思考の端から追いやった。また寸前で奴らの対処をするはめになりたくない。


「──ぐッ……!」
「クロム!」


 クロムのうめき声が聞こえて、ルフレはそちらへと目を向けた。フィシカもルフレの声で気づいたのか、ちらりとこちらを見る様子が視界の隅で見えた。
 クロムの方をしっかり目に映す。異形の者の刃がクロムの右肩を掠めたらしく、切り傷が右肩の痣の上に走っている。さほど深く入ったわけではないように見えるし、彼自身まだ剣を握れているといったところから致命傷ではないのだろう。少し安心はしたが、油断出来ない。


「大丈夫かい?」
「ああ、これくらいなら……、──ルフレ、後ろだッ!」
「!」


 クロムの声にはっとする。弾かれるように振り返れば、その先にあったのは斧の切っ先だった。
 持っていた魔道書を地に放り投げ、剣帯に吊るしていた青銅製の剣を右手にかける。しかしそれを振り上げ防御の構えを取るには少し間が足りない。となれば、攻撃を受けないことよりも、その攻撃をいかにして急所に当てないかを考える必要がある。
 相手が振りかぶっているのは斧で、その軌道は恐らく己の中心を狙っているのだろう。左に身体をずらし、右手を犠牲にしてはこの後の戦いに支障が出る。左手を犠牲にした方が幾分かよいだろう、と右に身体をずらそうと重心を傾け──。


「屈んで、ルフレ!」
「えっ?」


 高い女の声がする。なぜ、という言葉も、どうして、という言葉も、喉を震わせる前に消えていった。それが正しいか否かの判断をすぐに出来るほど余裕のある状況ではないが、人の体というものは単純なもので、その命令の是非を考えるよりも先に、言葉につられ傾いた重心を軸として体を屈ませていた。
 それから間を置かず、とすんと軽い音がルフレの頭上からした。その数瞬後に、斧を持っていた異形の者がルフレの目の前で崩れ落ちる。
 何が起きた。それを察するのは、崩れ落ちた異形の者の眉間を見てからだった。


「……短剣?」


 見覚えのある短剣が、そこに黙したまま刺さっている。見間違えるはずがない。これは、あのフィシカが手にしていた短剣だ。
 でも、なぜ。彼女は自分よりも前にいて、距離もある。いくら彼女が短剣の投擲を得意としていても、あの距離から的確に眉間を貫くなど不可能に近いのでは。

 その疑問の答えを示すかのように、彼女は近くの茂みから現れた。


「ごめんなさい、大丈夫? 間に合ってよかった」
「あ、ああ……大丈夫。それよりフィシカ、いつの間にそんなところに……」
「さっき。で、ほら。終わったわよ」


 彼女の声につられて辺りを見渡す。確かにフィシカが言う通り、その場に異形はいなかった。代わりに、自分たちがかなりの距離を移動していたのだろうか。その景色はルフレたちがフィシカと出会う前にいた、少し開けた場所へと出ていた。
 ここならば少しは落ち着いて話が出来るだろう。フィシカには聞かねばならないことがある。あの異形の者たちと戦う前に聞いた、不当な重税のこととか。そう思って口を開いたクロムだったが、その口が言葉を紡ぐことはなかった。


「クロム様、ルフレさん! ……ご無事ですか?」
「フレデリク」


 威厳を孕んだ声がした。クロムにとっては聞き覚えのある声だ。そちらに目をやると、クロムの予想通りに鎧を着こんだ男が立っている。その後ろにも人が数人立っているのが確認できる。それから、その少し離れた場所にも。
 鎧の男はフレデリクと言った。クロムが所属する自警団の副団長だ。


「ああ、俺たちは平気だ。フィシカ……彼女が手を貸してくれてな」
「ほあっ? ど、どうも」


 語尾を揺らしてへらりと笑いながら、フィシカは手を振る。紹介されるとは思っていなかったのか、少しの動揺が見て取れた。確かに、手を貸してもらったとはいえ、盗賊を仲間に紹介するなど、自分がその立場であったなら思いもしなかっただろう。


「フィシカさん、ですか。我が主の手助けをしていただき、ありがとうございます」
「いやあ、その……私も困ってたし、ねえ?」


 フレデリクが見事な一礼を見せるが、フィシカはそれがどうも心地悪いらしい。助けを求めるようにクロムの方を見る。
 しかし、クロムも助けられた側であることは間違いないので、フレデリクにそれをやめるようには言わなかった。やがて自然に頭を上げたフレデリクは、すぐにクロムへと向き直った。


「我々の方も抜かりなく。我々が始末しきれなかった敵は、この方が片付けてくれたようです」


 フレデリクが視線を少し離れたところに向ける。そこに立っていたのは、パピヨンの仮面をかぶった人影。
 顔は仮面で隠されていて、その人が男か女かを見分ける手段を少なくしている。線の細さは女性的ではあったが、立ち振る舞いの美しさは男のそれと言っても疑いようがない。結果、どちらが彼、或いは彼女の性別なのかという結論は、クロムやルフレ、フィシカの中では出ていなかった。
 そんなことを考えていると、フレデリクの後ろからぴょこんと人が飛び出し、仮面の人物のもとへと駆け寄る。フィシカよりも身長が低いそれは少女のものだった。


「あ、あの! さっきはありがとう」
「…………」
「俺からも礼を言わせてもらう」


 クロムとその少女の言葉から察するに、仮面の人物はこの少女のことを助けたのだろう。恐らく、フィシカがクロムと出会う前に。それに対してのお礼を述べたらしいが、仮面の人物は──仮面で顔の半分が隠されているとはいえ──表情を変えることはない。少しだけ安堵の雰囲気が見て取れたように感じるのは、フィシカの気のせいだろうか。


「俺はクロム。あんたの名前を聞いてもいいか?」


 その一瞬、時が止まった。……ように、フィシカは感じた。どこがと聞かれれば、答えに困ってしまう、そんな本当に一瞬の違和感だった。何がどうおかしかったのか、フィシカにも認識することが出来ない小さな違和感。それが、あの仮面の剣士にまとわりついているように思えたのだ。
 しかしそれは本当に一瞬のことだ。フィシカが瞬きする間にその違和感は消え失せ、時間はいつものように動き出す。そもそも、本当に止まっていたという錯覚があったかすら疑わしいほど自然に。


「……マルス。僕の名はマルスだ」
「マルス?」


 フィシカはその固有名詞に聞き覚えがあった。
 どこで聞いた名前だろう、と熟考するまでもなく、その答えはフィシカの頭の中に浮かびあがる。そしてそれは、クロムたちも同じだったらしい。


「古の英雄王と同じ名か。確かに、その名に恥じない良い腕だ」


 古の英雄王。それはこの大陸にある「イーリス王国」の王家の先祖に当たる人物だ、とフィシカは記憶している。神剣ファルシオンを扱い、二度にわたって暗黒竜の手からこの世界を守った人物。書物にはそう記されていた。
 その人物と同じ名を持つということは、親がその英雄王のファンだったのだろうか。或いは──とフィシカの思考が彼方へ飛びそうになった頃、その意識は他でもない、仮面の人物──マルスの手によって現実へと引き戻される。


「……僕のことはいい。それよりも……」


 仮面の向こうの瞳が、一瞬フィシカの方を向いた──気がした。


「……この世界には、大きな災いが訪れようとしている。これはその予兆……どうか、気を付けて」
「──っ、ねえ、貴方!」


 踵を返しかけたマルスを呼び止めた。皆の視線が一様に集まって居心地が悪い。
 だが、そんなことよりも。フィシカにはそうせねばならない理由があった。何からどう口にすればいいのかわからなくて少し言葉に詰まってしまったが、ゆっくりと口を開く。


「多くを語りたくはないみたいだから、ひとつだけ聞かせて」
「……何かな」
「貴方が言う『災い』に、《ヴァレッダ》は関係している?」
「……ああ、君の言う通りだよ、フィシカ」


 それだけ言って、マルスは踵を返した。それ以上言うつもりはない、ということだろう。フィシカもそれを追いかけるような真似はせず、その場に立ち尽す。
 フィシカの目がほの暗い色に濡れるが、気づいた者はきっといない。辺りに残されたのは、奇妙な沈黙だけだった。