兄上が好きだったと零したその女の顔を、忘れることは出来なくなってしまったのだろう。
はじめは耳を疑った。
兄上には婚約者がいるのだから、そんな想いは抱えたところで叶うはずもない。
そもそもナマエは侍女で兄上はナマエの主人にあたる。そんなものが許されるわけがないに決まっている。
それに、今更そんなことを言ったところでどうしようもない。
禁断の関係などという馬鹿げたものに幻想を抱くような立場でも歳でもないだろうが、と言えてしまえればよかった。
結局その言葉を告げることはない。これから先も。
「笑われますか、フェリクス様」
「……本当に嘲笑って欲しい奴が、そんな顔で嗤うか」
酷い顔だ。今まで見てきたどの顔よりも。
耐えられないから零したはずなのに、泣くことだけは耐えている。そんな惨めな顔をするくらいならば、泣いてしまった方が楽だろうに。
それはナマエが自分自身に課した枷なのだろう、と推察して俺は黙る。そんなものに俺が口出しをしてやる義理はない。
あれから九年。随分と時間が経ったというのに、こいつの中ではまだ昇華しきれず枷になっているのか。
散れと言う気にすらなれず俺はただ黙ってナマエの方を見る。
「……そんなに不細工な顔ですか」
「酷すぎるな」
「然様ですか」
くすくすとあくまで上品に笑うナマエだったがその眦には強く力が入っている。
へたくそに笑うなと告げればはい、と彼奴は表情をもとに戻した。それでも泣かないのはもう、仕方がない。
一度そうだと決めれば曲げないやつだ、ということは俺がよく知っている。果たして何年共にいて、何年此奴のことを見続けていたのか。
だからこそ、此奴が兄上のことを好いていたなどという言葉に俺は頭を打たれたような気分になった。そんな素振りを見たことは一度もなかった、はずだ。
「上手でしたでしょう、誰にも気づかせないように振舞っておりました」
俺の胸中を読んだかのように女は言う。だろうな、とだけ返した。そうでなければ俺がそこまで気が付かなかったことへの説明がつかない。
俺から視線を外したナマエは遠くを見る。その目が誰を思い描いているかなど明白だった。
「イングリット様がいらっしゃるのですから、と、言葉にしたこともありません。……それを今になってこんなに後悔するとは。伝えることも、出来なくなってしまいました」
当然だ。兄上はもう亡い。伝える先もない。
それを墓場まで持っていけないのは偏に此奴の弱さだと思った。伝えておけばよかっただろうに。
その勇気もないのならば零してはいけなかったなどと、ナマエ自身がわかっているはずだ。
俺にそれをこぼしたのは、俺に兄上の影を見ているのか。
……随分と。
「随分と、舐めた真似をしてくれる」
「お気に召しませんでしたか」
「当たり前だ」
水分を持った瞳がこちらを向いた。その顔に妙に腹が立つ。
誰が好き好んで人の向こうに他人を見られたいのか。よりにもよって、お前に。
湧き上がる苛立ちを隠せそうにない。八つ当たりをしたいわけでもない。これ以上此奴の話を聞いていては何かに溺れそうになる気がした。
足を進める。彼女は追ってこない。ただ、俺の背に向けて言葉を投げた。
「フェリクス様」
「……なんだ」
「フェリクス様は、どうか私のように後悔なさいませんよう」
一度振り向く。静かに笑うヤツは一筋涙を零していた。
今の今まで我慢していたというのに耐え性の無い奴だ。
ならば、兄上など過去にしてしまえ。
ならば、共に先に進め。
そう言ってしまえたならどれほどよかったか。
そんな無責任になれるのならどれほどよかったか。
俺は自分が思っていたよりも、子供にはなれなかった。
「……善処しよう」
するだけだ。
俺は禁断の愛などというものに身を窶せない。現実主義者だと嗤い飛ばしてほしいのはこちらの方。
結局俺は兄上に何一つ追いつけなかったのだ、と突きつけられて喉の奥が痛んだ。
いとしめぐしの檻にゐる
2020.05.17
Title...ユリ柩