×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

いつかの空を見に行こう

 小さい頃に一度だけ見た、外の世界の空を今でも覚えている。自由で、壮大で、何よりも澄み渡ったあの青い空を、私は一瞬たりとも忘れたことがなかった。
 別に私は箱入り娘、という訳では無い。空だって何度も見たことがある。それこそ、飽きるくらいに。でも私にとって、その空は特別なものだ。
 大好きな人と一緒に見た、外の世界の空。それが特別なものになるくらいには、私はその空に恋焦がれている。

 私たちの住む世界は、いくらかに別れている、らしい。
 普通の方法では決して行き来することの出来ない時空の断絶。その先にある別の星界=B私たちの世界はそうやって成り立っている。
 星界ごとに、なにか大きな差がある訳では無い。物質は重力に従って落ちるし、炎は熱い。ただ明確に違うことが一つだけあった。

 時間の流れ。これは、絶対的に違う。
 もちろん中にいる私たちがそれが本当かどうかを調べるすべを持たない。けれど、時折外からくる人達の姿が数年経っても全くと言っていいほど変わらないのを幼い頃から何回か目にしているから、私はそれを疑いようがなかった。
 私たちの世界は時間が殊更早いらしい。別の世界が一週間進む間に、私の世界では1ヶ月経つ、みたいなことが普通にある。

 私が小さな頃、ずっと見てきたおにいちゃん……シグレ様も、元は外の世界の人だったと聞く。当時は私も小さくて、難しい話は分からなかったけれど、今ならわかる。
 外の世界は戦争をしている。家の中に遺された書物に、そんなことが書いてあったのをこの前目にした。シグレ様はその戦争に巻き込まれないように、と、私たちの住んでいたこの世界に預けられたそうな。

 その、戦争をしている世界に一度だけシグレ様と行ったことがある。シグレ様のお母様とシグレ様が少しでも一緒にいられるように、と、時間の流れがこちらよりも遅い、シグレ様の元の世界に行った。
 私もそれに護衛のために同行する、という形で。護衛を行っていたのは、女中だった母だけれど。
 その時にシグレ様、……いいえ、シグレおにいちゃんの横で見た空の、なんと美しいことか!
 吸い込まれそうな程に果てのないあの青空が永遠と続いているように思えた私は、その青空が欲しい、と駄々を捏ねた。今思えばすごく恥ずかしいけれど、シグレおにいちゃんは「いつか俺が大きくなって天馬と一緒に空を走れるようになったら、ナマエにあの空をあげますね」と笑ってくれていたのが、とても嬉しい。



 そんなシグレ様がここを去ったのは、私の世界でおよそ十年前の話だった。

 その日は屋敷がやけに騒がしかったのを覚えている。響く怒号、天馬たちの嘶く声、屋敷の中を駆け回る音。そのどれもが怖くて、耳を塞いでいた。
 シグレおにいちゃんは怯える私をぎゅっと抱きしめてくれていた。その体温の温かさはもう朧気になってしまっている。忘れたくないな、なんて思っていたのに、時間は結構残酷だと思う。

 母がシグレおにいちゃんの名前を呼ぶ声がする。はい、と顔を上げたシグレおにいちゃんは心配を込めて見あげる私の頭をひとなでした。「ここにいてくださいね」、なんて言われながら押し込まれた押し入れの中にはたくさんのお布団があって、それに必死にくるまっていた。動きづらいし、息もしづらかったけれど、奥へ奥へ入らないと安心出来ない。
 それからしばらくして、刃鳴りや金属同士がぶつかる甲高い音がし始めた。怖くて怖くて、お布団を耳に押し当てて、そのまま恐怖に固まった体はそれ以上を許容することが出来なくて、すっと意識が落ちた。

 それからどれくらい経ったのだろう。押し入れの暗がりで目を覚ました私は、外のあの怖い音が鳴っていないことに安堵して、嬉しくなって意気揚々と押し入れの扉を開いて飛び出した。


 噎せ返る血の匂いは、未だに鼻の奥が記憶している。


 そこら中に転がる人だったものの器。赤い液体。鈍色の破片。
 平和で人の声がしていたお屋敷は、私の知らない間に伽藍堂になっていた。
 それでも誰か、誰かいるだろう、と一縷の望みにかけて私は屋敷を歩き回る。幼い子供一人が探索するには広すぎる屋敷の中を歩いて歩いて、歩き疲れた頃に見つけたものは──母だった肉塊だった。


 ……そのあとの記憶は、ふつりと途切れている。次に記憶があるのは、やけに綺麗になった屋敷の中だった。人の気配はなくて、ふと見えた裏の庭にはこの家に在籍していた人数から二人分を引いただけの墓のようなものが立っている。
 それから見つけたのは、居間の机の上に置いてあった置き手紙。この字には見覚えがある。シグレおにいちゃんの字。

 手紙の内容は、幼い私にも伝わるように噛み砕いて書かれていた。
 お屋敷が襲撃されたこと。その襲撃でシグレおにいちゃんと私以外のみんなが死んじゃったこと。シグレおにいちゃんは外の世界に戻って、外の世界の戦争に参加することになったこと。

 ……置いていかれた、と漠然と思った。でも、それと同時に私を巻き込まないために置いていったのも理解していた。
 だからシグレおにいちゃんを責めることは出来ない。辛いのはきっとシグレおにいちゃんもだから。

 その手紙の最後の方に、屋敷から出ていっても構わないし、出ていかなくても構わない、という一文が添えられていた。出ていくのが正しい選択だったのだと思うけれど、母を失った私には行く宛がなかった。一人で生きていけるかも分からない、それでもここから出るなんていう選択肢は選べるはずもない。
 そんなこんなで、この広い屋敷にひとりぼっちになってから、10年が経過していた。





「やっぱり休日一日使っちゃうなぁ、お屋敷の掃除……」


 全ての部屋の掃除なんてしなくてもいいのではと自分自身思わなくもないけれど、それでもみんなとすごしたこのお屋敷の思い出を少しでも残しておきたくて、私は休日が来る度に掃除に精を出している。シグレ様のお部屋は男の人のお部屋だし、あまり入るべきではないのだろうなと思いつつ、でも私がやらなければやる人はいないからやっぱりやっていた。
 休日ごとにお掃除する部屋を分けたら少しは楽になるだろうな、ということは分かっているけれど、下手に分けて要領が悪くなるかもしれないと思うとどうも踏ん切りがつかない。こういう優柔不断さ、要らないんだけども。

 かぁ、と鴉が外で鳴いている。ふと窓から外を見るとその空は橙色に染まっていて、夕方を告げてきた。お夕飯の準備何もしてないな、なんてことを頭の隅で考えながら、私はその場を立つ。
 とんとん、と足音を鳴らしながら縁側に向かった。裏庭にあるみんなのお墓に挨拶をするのも、私の休日の日課だった。そんなに沢山報告するような事もないけれど、しないよりはずっといいだろう、と妙に律儀な私がいる。

 縁側から履物を履いて、墓の方へ視線を向けた。


「……え」


 人影がちらつく。思わず間抜けな声を出した。墓前でしゃがみ込み手を合わせるその姿は、知らないものじゃない。
 記憶の奥底にいた水縹みはなだがぶわりと蘇って、私の喉を震わせる。記憶と一寸違いない姿に、私はただ名前をつぶやくしか出来なかった。


「……シグレ様?」
「…………?」


 水縹が揺れる、梔子色が私を見た。やっぱり記憶と違いがない。不思議そうに私を見る彼は、私に空をあげると言ってくれたあの彼のままだ。
 あの、と遠慮がちに口が開かれる。ああそっか、外の世界とここは時間の流れが違うんだった。私にとって彼──シグレ様に出会うのは10年も前の話だけれど、シグレ様にとってはきっと数ヶ月前の話。そんな数ヶ月でこんな様変わりをした私を見たら、そうもなるよね。


「あの、ナマエです、シグレ様。えっと、シグレ『おにいちゃん』によくしていただいた……」
「……! ナマエ、あのナマエですか?」
「はい、そのナマエです」


 どのナマエを想定しているのかはよくわからないけれど、そのナマエが私だったらいいな、と期待半分で頷いてみた。じっと私を見るシグレ様の目は相変わらず優しい。
 そうして、過去の私と今の私がちゃんと合致したらしい。シグレ様は少しだけ驚いたような声で「大きくなりましたね」と言ってくれた。当然大きくもなりますよ、だって私、多分今だとシグレ様とそんなに年齢は変わらない。


「すみません、勝手に入ってしまって。まさか暮らしていてくださるとは思っていなくて……」
「勝手にだなんてそんな、ここは元々シグレ様のお屋敷ですから。居候させて頂いているのは私の方ですし、お気になさらないでください」


 当然だろう。あの手紙を見た時点で出ていくのが多分正しかった。本来なら、主人の家にずっと住むなんて言うのは、一介の従者がやるべき事ではない。
 ふとシグレ様の両手を見た。この辺りでは旬ではない果物を袋に入れて下げている。外の世界から、御参り用に持ってきてくださったのだろうか。果物も重いだろうしこのままだとダメだ、と思いたって、シグレ様を居間へと案内した。元々シグレ様のお屋敷だから、案内なんて言うのはおかしい気がするけど。




「あれから、何年くらい経ったんですか?」
「10年、です。ちょうど。外の世界は……」
「まだ数ヶ月ですね……、分かってはいましたが、本当にこの世界は時間の進みが早くて驚きます」
「はい……」


 来客用のものなんて何も用意していなかったから、とりあえず、と自分用に買っておいた新しい湯呑みをシグレ様に渡した。シグレ様が持つには些か可愛すぎる気もするけれど、さすがに10年前のシグレ様の湯呑みは置いてないし仕方がない。新しいものをすみません、と謝らせてしまったのは少し申し訳ない。
 お屋敷に私以外の人がいるのは久しぶりだ。なんだか落ち着かなくてそわそわしているとじっと見られていた。さすがに態度に出しすぎてしまったかな。


「どうかしましたか、ナマエ?」
「あ、いえ……すみません、変な感じがして。ずっと一人だったので……」
「……一人にしてしまってすみません」
「そんな!」


 それは、シグレ様の優しさだ。昔の私にはわからなかったけれど、今の私には分かる。当時の私を戦争をしている軍に置いておく訳にはいかないし、だったら無理矢理屋敷から連れ出すより、一人になるとしても屋敷に置いていくのが最善だったはず。野原に私を放り投げる訳にもいかなかっただろうし。
 だからどうか謝らないでください、と続けても、それでも困ったように眉を下げていらっしゃる。そんなに気になさることは無いのにな。相変わらず優しい人。
 そのままシグレ様は少し視線を下げた。つられるように私も、自分の手元にあった湯呑みに視線を落とす。あ、茶柱。


「不自由は、ありませんか?」
「一人で住むには少し広くって。お掃除が大変と言うくらいですね」
「……ナマエ」
「はい?」
「俺、今、天馬と戦っているんですよ」


 知っている。シグレ様は、誰よりもお屋敷の天馬を大事にしていらした。天馬に怯える私が天馬に触れるようになったのは、シグレ様が導いてくれたからだった。だからきっとシグレ様が戦うというのなら、天馬と共に空を駆けるのだろう、と予想するのは簡単だ。
 急にどうしたんだろう、首をかしげていると「分かりませんか?」と返された。ううん、それだけじゃ悟れないというか。茶柱の立っている湯呑みから視線をあげると、梔子色と視線が絡まる。え、なんですかその真剣な顔。


「本当は、そんなつもり無かったんですけれど」
「……シグレ様?」
「俺と来ませんか」
「……え」


 俺と来ませんか。おれときませんか。おれと、きませんか。
 何度か反芻して、その言葉の意味を理解する。いや、理解しきれてない。……俺と来ませんか、いったいどこに。
 どういうことですか、と聞くのはなんだか失礼な気がしてしまって、また視線を落とした。茶柱はいつの間にか倒れている。


「今なら、あげられますよ、外の空。あげるというか、向かう……が正しいかもしれませんが」
「え、……あ」


 それは小さな頃の私の我儘。あの空が欲しいとねだった小さい私。
 そんな小さい頃のことを覚えていてくれたのか、と恥ずかしくなった。いや、シグレ様からすればついこの間のことなのか。でもそれにしたって。
 どう答えたらいいかわからずに口を開閉する。言葉は出ない。餌を待つ小鳥のように見えたのか、シグレ様はくすくすと笑った。


「まだ、外は戦争をしていますから……ここでの暮らしのように、穏やかな生活、とはいかないと思いますが」
「はい、……はい、その」
「一人で暮らすよりは、きっと楽しいですよ。俺にとっては少し騒がしすぎるくらいですけれどね」


 冗談めかして言ったシグレ様の言葉に目を丸くする。
 ……あの生真面目すぎるくらいのシグレおにいちゃんが、こんな冗談を言うなんて。きっと、本当に楽しいんだろう。少し安堵した。彼はたくさんの人がいるところを好まなかったから。


「もちろん、貴女がそれを望まないというのなら、無理にとは言いませんが……もし許されるなら、もう一度、貴女とあの空を見に行きたいんです」
「シグレ様……」
「約束でしたから、ね」


 ふんわりと微笑むシグレ様は、私の記憶と寸分狂い無い。そんな風に微笑まれてしまうと、甘えていいのではないかなんて錯覚してしまいそうで。
 ねえ、いいの、シグレ様。今の私は幼いナマエじゃないけれど、またその我儘を言っていいの。私の問いかけに、シグレ様はまた微笑んだ。
 外の橙色は、夜の帳を下ろしていく。またきっと、あの時に見た空色になるために。



いつかの空を見にゆこう
(俺も楽しみにしていたんです、貴女と空を見るのを)



Title...ポケットに拳銃
2018.12.15 執筆