※3万ヒット記念リクエスト(芹様)
※「水平線が光る前に」の続編
夜。
その時間はナマエにとって巡邏の時間だった。今となってはこちらを狙う気配がこの場所に現れるのも滅多にないはずであるが、しばらく行っていた巡回の癖は抜けなくなっている。
気を張って見回りをするというのも気力を使うし本来ならば目を閉じ体を休めるべきなのだろう、ということはわかっているのだが。
大聖堂に繋がる橋を渡る。かつかつと空に消えていく音は一人分。暁は近くになりつつあるが、月はまだ微笑んでいる。夜風がナマエの頬を撫でた。
ほう、と息を吐き出して空を見上げる。雲を纏った月が、こちらを静かに見下ろしていた。
美しい夜だ、と思う。
前の巡回ではそんなことを思う暇もなかった。当然だ、気を抜けば命が散る、大切な人が傷つけられる、そんな最中にいたのだから。
けれども今は違う。この見回りは惰性で行っているだけで本当は意味など孕まないもの。「敵」はここに入り込まないし、入り込んだとしても自分一人で対処する必要もない。だからこそ、空を美しいと思えるのだ。それはどれだけ幸福なことなのだろう。
贅沢だなとナマエは破顔した。誰にも邪魔されず、ただ空を見上げる時間。かつてならばきっと一瞬たりとも許されなかった時間。それに、今は惜しみなく費やせるのだ。
あの人はこの夜空をどう思うのだろう。未だ忙しい身であるあの人は、この夜に癒されることはあるのだろうか。そんな考えが頭を掠めて、ナマエは拳をきゅっと握った。
びゅうと風が吹く。体温を奪うそれにナマエは少し身震いする。
寒冷なファーガスの地ではないとは言えやはり夜の風は冷たい。ファーガスにいる頃を思うと随分と過ごしやすい気候ではあるが、それでも寒さを感じることに変わりはないなと苦笑した。
この見回りだって、本来はする必要のないものだ。ならば早めに切り上げて、自室に戻ることだってできるのだけれど──。
「……後は、大聖堂だけ」
何かに引っ張られるように、ナマエは歩みを進めた。
向かう先は大聖堂、あの夜明けの日を迎えた場所。特段理由があったわけではないけれど、だからこそそちらに向かう自分に疑問を持つことはない。
かつ、かつ、かつ、かつ、ひた。
大聖堂の中に足を踏み入れようとしたとき、自分の足音に重なる音に気が付いてナマエは歩みを止めた。
こんな時間に何の音だろう。きっとその音の主もこちらに対し同じような印象を抱いたのか、重なっていた音が止んだ。
よくないものが入り込んだわけではないらしい。だが最低限の警戒は怠らない。獣のようだったあの人を護ろうとしていた日々の癖が抜けきっていないことにナマエは内心感謝した。気を抜いて不意打ちをされたなどということがあればあの人に顔向けが出来なくなってしまう。
最低限の注意を払い、大聖堂の入り口をくぐる。足音を殺して息を潜め、こちらの居場所を悟られないように身を柱に隠しながら中へ。
人影が揺れた。体格からして男のものだろう。気を抜かなくてよかったと心の中で思いつつ、息をひとつ呑んでから柱の向こう側を見る。
その姿は──。
「……先生?」
「……ナマエ?」
ぱちりと目があった。
視線の先にいたのは鮮やかな緑色を揺らす見慣れた人物の姿。ナマエ達に夜明けを齎した人。自分たちの先導者で、それから自分たちの教師だった者。
どうして彼が夜更けの大聖堂に。それはナマエにとって当然の疑問だったが、恐らくは彼もナマエに対してそんな感情を抱いているのだろう。その証左のように、ナマエを見るベレトの目が少しだけ見開かれている。
「どうしてこんなところにナマエが……」
「私は見回りで」
「見回り? ナマエの当番……ではない日だと思っていたけど」
「あの人と二人でいたころの癖でつい、今必要はないんですけど。そういう先生は……」
「巡回当番で」
「先生が?」
「そう」
ならばこの場にいるのも納得だ。今や重要な立ち位置にいるベレトではあるが、巡回当番は自分もやると言って聞かなかったと推測できる。
それこそ、ナマエのようにそれが癖になっているというのもあるのかもしれない。
しばらくナマエの顔を無表情で見ていたベレトだったが、穏やかな顔でふっと微笑んだ。
「ディミトリが苦しんでいる時に、一緒にいたのがナマエでよかったな」
「え?」
「癖が付くほどにしてたんだろ。そういう積み重ねで、今のディミトリは……」
ベレトの視線が動いた。その視線をなぞる。
その先にいたものを見て思わずナマエは目を
大聖堂の椅子に座す、美しい金糸雀色の髪と黒い毛皮の外套。後ろ姿でも見間違えることはない。あれはずっと後ろで、或いは隣で見続けた姿なのだから。
「……ディミトリ様?」
「寝ているよ」
ナマエの言葉に反応する様子を見せないディミトリの正面へと回り込むと、その双眸は閉じられている。ベレトの言葉通りだった。
珍しい。それがナマエの抱いた印象だ。
彼の復讐の旅路に付き合っていた時のディミトリは眠るということをしなかった。疲労によって齎された気絶による一時的な睡眠はあったものの、それはひどく浅く、少しの物音で起きてしまうものだ。
ベレト達と合流してしばらくもディミトリは眠ることをしなかったし、彼の心を覆っていた氷が解けた後も、こうやって自室以外で眠る姿を見せたことはなかったはずだ。
そんなディミトリが、だれもが利用する可能性のある大聖堂で、こんなにも穏やかな顔で眠るというのは。
「楽になったことの表れ、なんだろうな」
「……それは」
彼に、自分に夜明けを齎したのは先生だ。そう言おうとしてベレトの方を見る。
ベレトは笑っていた。
「ディミトリのことを、頼んでもいいか」
「え?」
「見回りに行かなくては。だが一国の王を放りだすわけにはいかない。起こすのも考えたけれど、こんなにも穏やかに眠るディミトリを起こすのも忍びない。だから、自分もディミトリも信頼を置いているナマエにディミトリを任せたい。構わないか?」
「それは、勿論」
そう、とベレトは微笑んで踵を返した。頼むよ。そう付け足してベレトは手を振り大聖堂を後にした。かつかつと、一人分の足音が大聖堂の外へと吸い込まれていく。
大聖堂に残されたのはナマエとディミトリと、少し寝息の音を孕んだ静寂だけ。
信頼してもらえているのかと思うとどこか心が浮わついた。そうしてそのまま、ディミトリの右隣に座る。
本当に穏やかな顔で寝ている。それに気が付いて思わず口の端から笑みが零れた。かつて彼の目に張り付いていた隈も今では随分薄くなったし、手入れをさせてもらえなかった髪も今では優しい輝きを取り戻している。
それが本当に嬉しい。ここがディミトリの心安らげる場所になっているのだとわかって、隠していた安堵と、それから少しの愛しさが顔を出す。思わずナマエはディミトリの頬に左手を伸ばした。
「──見すぎだ、ナマエ」
「っ、申し訳ありませ……」
ぱ、と手を取られる。手を取ったのはディミトリ本人の右手だった。そのまま手を繋ぐように下ろされる。
いつの間に起きていたのかとか、目も開いていないのにどうしてわかったのかとか、言いたいことはたくさんあったが真っ先に出てきたのが謝罪な辺り自分には従者根性が染みついているのだなと心の中で苦笑した。
ゆるりと彼の目が開く。雪を溶かしたような優しい水色の目線が、ナマエを映す。その目にかつての冷たさは宿っていない。
「……やはりナマエだったか。お前のことは気配でわかるようになった」
「煩かったでしょうか……」
「まさか」
寝起きの眼でナマエを捉え、寝起きの声でナマエを呼ぶ。そのすべてがこちらを許容してくれているような色だった。あまりに煩いと思われているようならば去るべきかと思っていたが、それもないらしい。
くぁ、とディミトリがあくびを一つ落とす。あくびが移ってナマエも思わずあくびをしそうになったがさすがにかみ殺した。
「今の時刻は……」
「そろそろ夜明けかと」
「……随分寝ていたな」
「いつからいらしたのですか?」
「陽が沈んで、少ししてから。気を失ったのは……いつからだったか」
そういいながらディミトリは姿勢を崩した。どうするのだろうと彼を見ているとその頭が下りてくる。ずる、と力なく彼の頭が預けられたのはナマエの肩だ。
思わずナマエは目を丸くした。かつて彼が縋るように手を伸ばしたナマエの肩に、今はそんな温かさが預けられるなんて。
未だ繋がる左手はディミトリの右手に弄ばれる。指が絡んで少し擽ったい。
「ディミトリ様? ……ここにいてはお風邪を召されます。自室に戻りませんか?」
「……こうしていたい」
「もう。我儘は……」
「寝起きにナマエがいて、安心したんだ」
ひゅ、と息が喉の奥に詰まる。かつての彼の言葉が脳内に反響した。
ずるい人だ、と思う。そんなことを言われてしまっては何も言えなくなると、彼もきっとわかっているのに。
言葉に詰まったナマエの気配を感じ取ったのか、ディミトリがくつくつと喉で笑っている。本当にずるい人だ。
「だが本当にそう思った。……お前を失うのは、耐えられそうにない」
「そんなご冗談を……」
「俺がそんな冗談を言うように思うか?」
「……いいえ」
元々冗談など得意ではなかったはずだし、こういった類の冗談を彼が好むはずもない。そういうことはわかっていたが、なんだか気恥ずかしくなって誤魔化した。すぐに看破されてしまったせいで余計に恥ずかしい。
だろう? とこちらに投げる声はどこか満悦にも聞こえる。本当に楽し気なものだから、何か反論する気力もそがれてしまった。
左手が少し強めに引かれ包まれる。そちらに目をやるとナマエの左手はディミトリの体の眼前にあり、その手を彼の両手が包むようにしている。手が寂しいのだろうか、とそのままにしておいた。
ふと顔を上げる。陽の光が大聖堂の中に差し込み始め、美しい景色を広げていた。
瞼を閉じても薄く入る光に、何か自分の奥に在るものを剥がされる。
夜明けは、不思議な時間だ。
「なあ、ナマエ」
「ん……どうかしましたか?」
ディミトリの声がする。表情は見えないが、その声は少し夢心地のようだった。
当然だ。まだ寝ていてもおかしくない時間で、微睡むのだって普通のことだ。だから自室に戻ることを提案したというのに、ディミトリはまたここで眠るつもりだろうか。
そうなったらどうしようと一瞬考えて、やめた。そうなったらどうせ自分もディミトリが起きるまで寝るほかないのだから。
「手を」
「手?」
先ほどから弄ばれていた左手が解放される。随分長い時間握られていたものだから手が温かく、解放されたというのにディミトリの熱が、感覚が残っているようだと苦笑して。
それから、薬指に輝くものを見た。
「……は、」
「どういった理由であれ、お前を失いたくないと思う俺をお前は嗤うか」
夢心地の声はない。そこで鳴るのは真剣な声だ。
ばっと彼の方を見る。ナマエの肩から身体を離した彼はこちらを向いている。優しい目でも、冷たい目でも、怯えた目でもない──一人の人間の目がこちらを向いている。嗤える、わけがない。
剥がれていく。
夜に包まれた本心が、夜明けと共にその姿を晒す。
「ナマエ」
「……はい」
「お前と、共に生きたい」
言わなければならない言葉は沢山あった。身分のこと、国のこと、これからのこと。きっと常識を想うならば、何よりもそれを言わなければならないのだろう。
けれどそれらは夜に呑まれて攫われた。残ったのは純然な本心だ。
「……私も、貴方と一緒がいい」
震える声で本心を告げる。過不足のない、偽りも建前もない、心からの言葉だ。
朝焼けに照らされたディミトリの、その幸せそうな顔にどちらともなく口づけた。
夜明けの魔術がやってくる
2020.05.29
Title...ユリ柩あとがき(折り畳み)
比較的甘いと……思います……! 少なくとも拙宅の中では甘い、と思います。本当に。
「続編」なので、前作に当たる「水平線が光る前に」を意識した言葉や展開をふんだんに盛り込んだつもりです。冷たい目→雪を溶かした目、みたいな。
「短編の続編」という形式が初めてなものでしたので、好き勝手に執筆いたしましたがどうでしょうか。お気に召していただけますと幸いです。