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水平線が光る前に



「ぐ……ッがァぁ……!」
「はあっ……、は……」


 刃を突き立てる。肉を抉る感覚が自分の手の中で踊っている。
 血の匂い。幾度も幾度も嗅いで慣れたはずの匂い。しかし、それが齎す不快感にはいつまで経っても慣れない。
 はあ、とナマエは短く息を吐き出して眉間に皺を寄せた。

 五年。士官学校の日々から五年が経った。
 今から丁度五年前の日に戦争がはじまり、大地は荒れ、このガルグ=マク大修道院は陥落した。今では賊どもが入り込み、見る影もなくなってしまっている。
 瓦礫は散乱し、死体が山のように積み重なっている。厳かな雰囲気などどこにもない。

 ナマエは主たるディミトリと共にこのガルグ=マクに戻ってきた。流れ着いた、というのが正しいのかもしれない。
 帝国と結託した親帝国派のコルネリアにより──無実の罪で──処刑されるはずだったディミトリをナマエとドゥドゥーが助け出した。ドゥドゥーはその最中に囮となることを選び行方知れずとなってしまったが、ディミトリとナマエは生き抜けた。
 しかし、九年前──ダスカーの悲劇の頃から取り繕い続けてきたディミトリの精神は、五年前仇の正体を知ったことをきっかけとし、そしてドゥドゥーという忠臣を失ったことで崩れてしまったのだろうか。今の彼は五年前の面影などない、旧友フェリクスに言わせるところの「獣」となってしまった。
 目についた「敵」を刺し、斬り、穿ち、抉り、殺す。それ以外は最低限の栄養摂取しか行わず、眠る時ですら気を失う以外では目を伏せない。ディミトリは、そうなってしまった。
 昔からその兆候はあった。ダスカーの悲劇以降の彼は危うかった。それがドゥドゥーの喪失により瓦解してしまった、という話だ。

 今のディミトリは獣であり、亡霊のようなもの。ナマエの進言に聞く耳を持たず、ただ流れるように帝国の兵や賊を殺していく。その流れのまま、このガルグ=マク大修道院に着いただけ。
 そしてこのガルグ=マクに住み着いた賊を殺しまわり、力尽きたところで気を失い、襲撃されてはまた目を覚まし……。そんな日々を繰り返している。

 きっとディミトリは、五年前の約束すら頭の引き出しにしまいこんだままなのだろう。
 五年後の落成記念の日──つまり明日、皆で集まろうという約束。それを口にしたのはほかでもないディミトリだというのに。
 あの約束をした日、確かに皆で笑い合ったというのに。先生がいて、ドゥドゥーがいて、ディミトリが笑っていた。あんなに幸せだった日々は、もう戻ってこないのだろう。
 待ち望んだ約束の日が来ないで欲しいと重石になる。その日に何怒らなければ、幸福は二度と訪れないと証明されてしまうようで。


「…………」


 呼吸を整えて顔をあげる。暗い顔をしていたところで何かが変わるわけではないのは身をもって知っていた。ならば、今するべきは暗い顔ではない。
 辺りに自分を狙う賊の気配がないことを確認して刃を収める。随分と長い間手入れしていないからか、切っ先は錆びていて切れ味も悪い。こんなもので殺された賊に一種の同情を覚えつつ、自分を敵に選んだことに対して哀れみを覚えた。そもそも、自分に刃を向けた時点で惨い死に方以外の未来など残されていなかったのだが。

 かつ、と足音が聞こえて即座に今収めた刃に手をかける。息を殺し、気配を探り、出方を伺う。
 殺し損ねた残党か、或いは新たな客か。何者であれ、それが敵であるならばナマエの行うことはその処理でしかない。ディミトリを害する者を駆逐し、彼の復讐が終わるその日まで付き添うと決めたのだから。
 しかし姿を現したのはそのいずれでもなかった。手入れの施されていない、それでも美しい金糸雀色の髪が視界に入ってナマエはすぐさま背筋を伸ばした。ぞっとするほどの怖気をまとったそれは、一直線にこちらに向かってきている。
 彼の冷たい水色の目線が、そっとこちらを刺した。


「……何をしている、ナマエ」
「……ディミトリ様……」


 かつ、かつ。彼の歩みはナマエの半歩手前で止まった。手を伸ばせば触れる距離にディミトリはいる。慌てて刃から手を離し、臣下の礼を──取ろうとして、それはディミトリがナマエの肩を掴んだことによって阻止される。
 ぎりぎりとディミトリの手に力が入っている。鎧の上からではあるがその力が直接伝わってくるようで、それがどうしてか縋られているようにすら感じてしまって。
 息がかかるほどの距離に顔が近づいてくる。こちらを覗き込むディミトリの目の奥底に、暗い明かりが灯っていた。


「傍に控えていろ、と言ったはずだ」
「……申し訳ありません、見回りをしていて……それで、賊が……」
「誰が、いつ。そんなことをしろ、と命令した」


 疑問の様相をした咎立とがめたてだ。ディミトリはそんなことを命令したわけではないし、そのほかの誰に言われたわけでもない。ナマエの独断だ。主の命令に背いて行ったことだ。気を失い眠ったディミトリが賊に煩わされないようにと思って行ったこととはいえ、それは覆ることのない事実。咎められることは当然だ、と飲み込むしかない。
 申し訳ありません、と小さく零す。しかしディミトリの手の力は緩まらず一層強くなるばかり。怖い、と思うことはナマエの心自身が許さず、ただその力と彼の視線を浴びるばかりだった。

 ディミトリの目を見返す。目の下の隈が昨日よりもひどくなっているのに気が付いてナマエの眉根が下がった。
 ナマエとてわかっているのだ、今苦しんでいるのは他でもないディミトリだということは。
 でも、だからこそ。その苦しみに寄り添えないことが苦しくて仕方がない。この人の疵に触れられない自分が忌々しい。身体的被害を排除することは出来ても、精神的苦痛に寄り添えない。身体的にもたらされる被害ですら、完璧ではないことも理解していた。

 ナマエの表情に気づいたディミトリが、苦し気に眉を顰める。ああ、とナマエは言葉を呑んだ。


「お前まで、俺の傍からいなくなるつもりか」
「……私は……」
「先生も、ドゥドゥーも、皆俺の前から消えた。……ナマエ、お前も……」


 違います、と否定する前にディミトリは目を伏せてしまう。
 事実がどうであれ、彼の目にはそう映ったのだろう。彼が意識を取り戻したときに隣にいなかった、という事象がそう見えてしまったのだろう。違う、と言ったところで届かないと理解して、ナマエは言葉をなくしてしまった。
 ふと肩を掴む手が震えていることに気が付いた。私の存在を確認しているのだと悟ったナマエは手を伸ばしディミトリの頬に触れる、その寸前でディミトリが目を開いて肩から手を離した。そして。

 ディミトリの手が、ナマエの手を掴んだ。


「……ディミトリ様……?」
「…………」


 一瞬、何かを言うようにディミトリの口が開いた。
 行かないでくれ、と言われた気もするし、ひとりにするな、と言われた気もする。或いはそれらはただの錯覚でひどいことを言われたのかもしれないし、何も言われなかったのかもしれない。
 それを知る術はないが、ディミトリの目がほんの少しだけ泣きそうな子供のようになっていたことだけは、見間違いではないのだろう。

 ディミトリはそれ以上話すことはなかった。手を離し、ナマエを打見し、踵を返す。呆気に取られていたナマエだったが、はっと気が付いてその背を追いかける。拒絶の言葉は返ってこなかった。
 ディミトリ様、と声をかけると「大聖堂にいる賊を殺す」と温度の籠らない言葉が降ってくる。それを止められるはずもなく、ただディミトリの後ろを歩いた。

 大聖堂に向かう橋を二人で歩く。かつかつと音が空に消えていく。星辰の節の寒さがナマエの体温を奪っていった。
 まだ夜は帳を落としたまま月は頭上で暗く輝き、約束の日は迫ってくる。
 ──夜明けは近い。



水平線が光る前に
(暁も黄昏も、お前は、そこにいればいい)



2020.02.29
Title...ユリ柩