果実茶の甘い香りが部屋に満ちて鼻腔をくすぐる。この匂いは私が好きなもので、先生はきっとそれを知ってこの茶葉を用意してくれたのだろうなと思うと顔が綻んでしまった。
先生は誰にだって優しいけれど、二人きりの時くらいはその優しさに夢を見ることくらいは許される、と思う。
先生が淹れてくれたお茶に口をつける。優しい甘さが口の中に拡がって、思わずほぅっと息を吐き出した。添えてくれたお菓子を口に入れれば、さくさくほろほろと崩れていく。美味しい。
ふと見られていることに気づく。先生の若葉を思わせるような緑の瞳が、何処か楽しそうにこちらを見ていた。
「……先生? 私の顔になにか……」
「そうじゃない。嬉しそうに飲むな、と思って」
「な、何それ……」
なんだか気恥ずかしい。顔から火が出るような思いになって、私は誤魔化すように口いっぱいにお菓子を頬張る。口の中の水分が一気に持っていかれて思わず噎せそうになったけれど、なんとか耐えられた。
口の中のお菓子をちゃんと味わいながら、お返しとばかりに先生を見つめてみる。……相変わらず表情が薄いから、私みたいに恥ずかしがっているのかも分からないけど。でも、なんとなく見られて不思議そうにしているのは分かった。
「……自分の顔に何か?」
「それ、私が言ったことそのままじゃない」
「あ……」
そういえば、と先生が惚けたような返答をするものだからおかしくて笑ってしまった。先生って、本当に天然だ。
私が笑ったことに不満そうな顔をするでもなく、先生はその頬に薄く微笑を浮かべる。その姿は何故だかどこか神聖なものに見えて、私は少し背筋を伸ばした。また先生は不思議そうにしている。
「ナマエ?」
「……不思議な人だなって、そう思ったの」
「自分が?」
「先生が」
先生は自分の特異性を全くと言っていいくらいには理解していない。もう少しくらい、自覚してもいいとは思うのだけれど。
何処がだろう、と首を傾げる先生は心做しか幼く見える。先生、自分の年齢もわからないと言っていたけれどやっぱり私たちと同じ年代なのではないか、と邪推してしまう。とはいえ、私たちを導いてる時の先生は紛れもなく教師≠フものだから、本当によく分からない。
「……考えたこともなかった」
「嘘、本気で言ってるの先生」
本当に自分のことに無頓着だな、この人。そんな先生だから、私たちは皆先生を慕っているのだとは思うけど。
もう一度先生を見つめてお茶を飲む。今度は少し照れたのか、居心地が悪そうに視線を逸らした。
それ、私たち生徒が先生とお茶をする度に同じことを思ってるよ、なんて思ったけど伝えるのはやめておく。先生だって、悪気があって私たちのことを見てるのではないことくらい分かっているし。
鮮緑が揺れる。それがやけに目について、私は思わず今まで思っていたことを口にしてしまう。
「……先生って、神様みたい」
「神様? ソティス、……女神ソティスのような?」
こくり、と頷いた。女神ソティス、の名を呼ぶ時に一瞬声に詰まっていたのは知らぬふりをしておいてあげよう。
この髪のせいなのだろうか、と先生は髪の毛を触る。まぁそれもあるけれど、と私は前置きをした。
「神様って人のことを導くでしょう? 少なくともこのフォドラではそう信じられてきて……、大司教は神託を民に伝えて、そうしてこのフォドラは続いてきた。先生が私たち生徒にしていることって、それにとても似ている」
「自分は、そんな大層なことをしているつもりは無いけれど」
「先生になくても! 私たちは……少なくとも、私たちの学級の生徒はそう思ってるよ、きっと」
そうだろうか、と疑問符を浮べる先生にそうだよ、と首肯する。
そういうところまで無自覚なのは先生の美点でもあるのだけれど、あまりにも無自覚すぎて、自分が与えている影響の大きさまで自覚していないのではないだろうかと一抹の不安を覚えた。先生らしいのはいいことだけれど。
先生は少し黙り込んだ。何を考えているようで、けれど何を、とは聞けなかった。私が聞くよりも先に、先生が口を開いたからだ。
でも、と反論の接頭語がついた言葉に、私は思わず身構える。
「自分は、神様ではないよ」
「勿論、それは分かって──」
「これ≠ヘ確かに女神からの借り物かもしれないけれど……、自分がもしも神様なら、きっと誰を彼をも救って──この戦争を止めていた」
しん、と場が静まる。しまった、と私は思ったけれど、それはもう遅かったのだろう。
先生は強くて、頼もしいけれど。どこまでだって人間だ。
だからできることに限りはあるし、故にこの戦争を起こさないなんてことも出来なかった。
それは先生が責められるべきことではない。起こしたのはひとりの少女で、それを止められなかった責任は先生にはない。当然のことだ。
だけれど先生は悔いているのだろう。……知っていたはずなんだけれど、迂闊だったな、と反省する。
私の態度に気がついたのだろう、先生は少しだけ困ったような顔をした。あぁ、先生を困らせるつもりはなかったのに。思わず視線をお茶へと落とした。
申し訳なくなってどうしようかと考えていると、先生が今度はお茶を口にして、一息ついてから口を開く。
「自分はただの傭兵で……、ナマエの先生だ」
「……うん」
「けれど、だからこそ、……ナマエのことはちゃんと導きたいと、そう思ってる」
「先生として?」
「ふふ、さあ」
何それ、と苦笑を零す。視線を先生に向けると、先生はとても優しい顔をしていた。
……出会った頃とは大違いだ。あの頃の先生は無表情で、髪だってこんな明るい色ではなくて。
それでも先生は、ずっと私たちと歩んできてくれた。救ってくれたことだってある。その自覚すら、先生にはないのでしょうね。
「ねえ、先生」
「……ん?」
「これからも、私を導いてくれるって、約束してくれる?」
「あぁ」
力強く答えてくれた先生がとても頼もしく思えた。
……先生は神様のように見えるけれど、やはり神様ではないのだと改めて思い知らされる。
神様なら、きっとこんな近くで頼らせてはくれなかっただろう。こうやって肩を並べて共にお茶をすることだって叶わなかったはず。
だから、ほんの少しだけ。そう述べたのは私だったのだけれど、先生が神様でなくてよかったと思ってしまったのだ。
神様は救わない
(救いなどなくてもいいの、共に歩んでくれるから)
2020.02.05
Title(表題)...Discolo