※理不尽な八つ当たりの気持ちを持つ描写があります。
宝石のように輝かしい肩書の中に埋もれる。
そういう感覚は私だけじゃなくてこの学校に通う平民なら大なり小なり持っているのだろう、と思う。
平民で士官学校に通う人はそう多くない。
隣の学級はそれが更に顕著で、平民が学級に一人しかいなかったりする。
そちらに比べると私の学級はまだマシな方ではあるのだけれど、それでも周りにいるのは貴族が大半だ。お金がかかるから当然と言えば当然だけれど。
ゴーティエ伯嫡子、フラルダリウス公嫡子、ガラテア伯嫡子、果てにはファーガスの王子様まで。
そんな環境にいて気落ちするな気後れするなと言うのは土台無理な話で、覚悟はしていたけど疲労は積み重なってしまうもの。
別に学校が嫌いとか、めんどくさいとか、そんな話ではない。貴族の皆も嫌味ではないし、とても優しくしてくれるし。ただただ私がちょっと気にしすぎているだけであって、……私が貴族を苦手に思っているだけ。
そんな生活をしているから、些細なことが私にとっての癒やしになる。今の所の癒やしは、というと。
「ナマエ、今いいかい?」
「ええもちろん、アッシュ。……キーフォンの剣の感想でも聞きに来た?」
「あ、あはは……そんなに分かりやすかったかな」
同じ学級の生徒であるアッシュと会話することだ。
彼を適切に形容するのであれば、彼も貴族の一員として扱うべきなのだとは思う。貴族であるロナート卿の養子なのだから、彼が貴族の一員であるということは疑いようがない。
けれどなんというか、アッシュは──誤解を恐れずに言うのならば、どこか平民的というか。実際、ロナート卿の養子になる前の彼は平民だったらしいし。
「まだ全部読めていないのだけれど……」
「読む速度はみんな違うからね、仕方ないよ。どこまで読めたんだい?」
「ええと、48頁の……」
アッシュとは感性が近いのかとても話が合った。本を読む人は学級にも多くいたけれど、その中でも一番話しやすいのがアッシュだ。
アッシュがどう思ってくれているのかはわからないけれど、私から見た彼は少なくとも嫌がっているようには見えていない。話しかけてくれる程度には。
仲間意識……のようなものを感じているのだと思う。本来なら貴族として振る舞っていいはずのアッシュが、そんな素振りを見せずに笑ってくれるから。優しい瞳でこちらを見てくれるから。
だから私は彼とともにいることを心地よく思っていた。
この時はそうだった、と断言していい。
話が──否、私の心持ちが変わったのは花冠の節だ。
私達青獅子学級に齎された課題は教団に対する反乱の鎮圧の後詰、というものだった。
相変わらず、生徒に任せる課題として適切かどうかを考えると如何なものかという気持ちにはなる。けれど、重要なのはそこじゃない。
反乱の首謀者というのがロナート卿、つまりアッシュの養父。
その知らせは私達に少なくない衝撃を与えた。当然だ、学級の生徒の身内を討てと言われて動揺しないわけがない。
アッシュ本人も酷く気落ちしていた。皆が彼にかける言葉を失うくらいに落ち込み、苦しみ、悲しんで、そうして抱えた疑問を吐き出せずにいた。
痛ましい。哀れだ。そう思うのが──多少の傲慢性を孕むが──普通の人間だ。私もそう思わなかったわけではない。
けれど私はそれ以上に、愚かにも彼に隔絶を感じてしまう。
(そうやって落ち込めるのは、あなたが貴族だから……)
たとえば私の両親が反乱を企てたとしても、その素性はおそらく伏せられるだろう。何故ならばそんなものは重要ではないから。一般市民、よくて肩書──商家がとか、農家がとか、そういう風に告げられる。
討てと命じられても、その姿を、その正体を知るのは鎮圧の日でしかないだろう。幸か不幸かは置いておくとして。
でもロナート卿は違う。
あのお方は貴族で、故に名前にも意味がある。意味がある以上それが告げられるのは当然で、だから私達はロナート卿が反乱を起こしたと知ることができたのだ。
だからアッシュは悩むことができる。苦しむことができる。どうすればいいのかと思うことができる。
それは確かに酷いことだろう。辛いことだろう。けれどどう考えたって、私目線としては、貴族の特権に他ならなかった。
アッシュにかける言葉を持たない。それは多分、この学級の皆がだ。
けれど私は彼ら以上にそんなものを持てない。私は彼の苦しみを十全には理解できない。私が、分かるわけがない。私は平民だから、彼の立場であるが故の苦悩を知らない。
誰だって同じ立場じゃないということはわかっている。それでも私達の間にある壁はあまりにも大きいものだと突きつけられた。
苦しかった。彼のことを慮って苦しい気持ちであると同時に、そんなことを思ってしまう自分が嫌いになる。
ひどい話だ、と自分のことながら思う。
勝手に仲間意識を持って、勝手に突きつけられた気分になっているだけ。
頭では理解しているけれど、それに心がついていくかどうかというのはまた別の話らしい。
アッシュとの会話は減っていった。落ち込む彼を励ますことは出来なかったし、気分を逸らしてあげる事もできないし。彼が貴族だと思い知ってから、側にいることが上手くできなくなってしまって。
結局そのまま、彼と一緒にいる時間はなくなった。
唯一と言ってよかった私の癒やしの時間と共に、居場所まで喪失してしまった。
吐き気がする。
†
あれから私は寝込むことが多くなった。精神的な負荷が今まで以上にかかっているせいで体にまで負担が来てしまっている、らしい。薬をもらっているけど、それでも賄えないくらいだ。
授業に出られていない、という意味で隣の学級の引きこもり貴族様よりも引きこもりしてるなぁ、と自嘲する。先生が気を回して週の終わりに授業の要点をまとめた書類をくれたりしていて申し訳がない。
節終わりの課題に出られなくなることも何回かあって、そろそろ卒業要件を満たさない不安まで出てきた。あ、考えると吐き気がする。
なんとか体の不調を抑えてでも授業に出ないとまずいな、そもそも理解できるかな……なんて考えがぐるぐる回ってしまう。
取り敢えず借りていた本を書庫に返しに行くことだけでもしないと、と思うとまた憂鬱になった。
(……キーフォンの剣……)
アッシュとの話題の種になっていた本だ。アッシュと話すことが少なくなっても、本の面白さに変わりはないわけで。
だから読んでいたのだけど、この本の面白さに引き込まれるたびにアッシュの顔が思い浮かんだ。本にもアッシュにも失礼だなぁという客観的な評価は下せるものの、それを是正するだけの力は残っていない。
明日の早い時間……出来れば人があまりいない時間に返しに行こう、と重い決心をしたところでこんこんこんと部屋の扉が音を鳴らした。
先生だろうか。でもまだ週の中ほどで、先生が書類を持ってきてくれるには早すぎる気がする。一体誰だろう、と扉に歩み寄った。
「先生? ……ではない?」
「あ、えっと……ごめん、僕なんだ、アッシュ」
「……え」
初めてのことだった。
何人か、心配してくれた学級の仲間が私の様子を見に来てくれたことはあった。でもそれはみんな女の子で、当然その中に彼の姿はない。
だから彼が──アッシュがここに来るのは初めてで、思わず本当に、と訪ねてしまいそうになってしまう。でもその声がアッシュのものだというのは(声を魔術的に模倣している、とかでなければ)考える必要もなくわかったので余計に緊張した。
一体何をしにこんなところに来たのだろう。
こちらが勝手に感じている溝のこともあって正直なところあんまり顔を合わせたくはないのだけれど……。
だからといって追い返すなんて真似ができるわけもなくて、そっと扉を開いた。
灰色の髪が揺れている。
久しぶりに面と向かって顔を合わせたアッシュは、どことなく大きくなっているような気がした。私の気のせいかもしれないけど、それでもそう見えた。
優しい瞳がこちらを見ている。
「元気……ではないよね、大丈夫? ナマエ」
「……今は、少し吐き気がするくらい。……どうかした?」
身勝手な鬱が私の心を覆った。返答を一つするのにも時間がかかってしまう。
我ながら馬鹿馬鹿しいなとは思うのだ。思うだけで何かが変わるわけでもないのだけど。
わかっている、アッシュに八つ当たりしたところで、アッシュを遠いものだと思ったとて、私の置かれている状況も、彼の在り方も変わるわけではない。
アッシュを遠くにしてしまったのは私の心なのだから、私が近づかなければ解決はしない。……分かっている。
「今日の授業、わかりにくいところあったから先に書類を渡しておこうってことになって」
「……先生は?」
「今節の課題のことで忙しいみたいでさ。ほら、今節は鷲獅子戦だから」
「……ああ」
そういえばもうそういう季節だった。
部屋に引きこもることが増えたから季節の移り変わりに疎くなってしまって、恥ずかしい話だがそういう実感がなくなってしまっている。先生もわざわざそんな話はしないし、アッシュが言わなかったらこの先もあんまり意識しないで過ごしていただろう。
……流石にちょっとそれは怖いな、これからはもう少し外の情報に耳を傾けるべきかもしれない、なんてぼんやり思う。一拍おいてこの思考が目の前の会話からの逃避だと気がついてしまって頭が痛くなる。
「……迷惑かけたね、ごめんなさい」
「迷惑だなんてそんな。僕が行きたいって言ったんだよ」
「……アッシュが?」
まあ、確かに先生がアッシュに任せるようには思わない。
いくらアッシュがおとなしい方だとはいえ彼も男性だ、何を考えているかよくわからない先生だけどそんな軽率なことはしない、と思う。……いやまぁ、送り出してる時点で同じではあるかもしれないけど。
でも、なんで。アッシュが来たいと思うような振る舞いを最近はしていない。思い当たるのは……。
「……キーフォンの剣?」
返しそびれているこれ、だろうか。元々は本の内容で語り明かしていた私達だもの、これが理由になることは何らおかしなことではない。
けれど私の読みは外れていたようで、アッシュは何度か目をぱちぱちと目を瞬かせている。それからぱ、と表情を明るくした。
「キーフォンの剣、読めた?」
「ええ、まぁ。……その反応、違うのね、目的とは」
「あ……うん、ごめん。読んでくれていたとは思わなくて……」
少しの苦笑いを浮かべるアッシュの姿は花冠の節以前の彼と何ら変わりなかった。
変わるわけがない。彼が変わったわけではないのだから。今も昔も変わらず、……その笑顔は、とても優しくて、くすぐったいものだ。
「最近全然喋れてないから、ちょっと苦しいというか、なんというか、さ。また前みたいに話せたらいいなって、そういう下心込みで……」
恥ずかしいな、と小さく付け足しながら彼は頬を掻いた。
……話してないことを、気にかけられていた。自分が強く意識しているだけかと思っていたけれど、そうではなかったらしい。
申し訳ないような、恥ずかしいような、情けないような。そんな色んな気持ちがごちゃまぜになってうまく処理ができない。どういう顔をしたらいいのかわからなくなって俯いてしまった。
それに気がついたアッシュが殊更優しい声で続ける。
「……確か、ロナート様とのことがあった時から、だったから。僕に気を使ってくれて、それで……」
ふる、と首を横に振る。
違う、アッシュは何も悪くない。悪いのは私だ、勝手に怖くなって逃げたのは私なのだから、と否定のために頭を上げると目があった。
「ナマエ。僕のことまで抱え込んじゃうと苦しいと思うんだ。だから今は、そういうことにしておこう」
そう言ってくれる彼の瞳はひたすらに優しくて、それでいて等身大の、同年代の友人に向ける親しみの瞳だ。
ああ、と小さく息を吐く。勝手に期待して、勝手に苦しんで、とんだ痴れ者だ。きっと友人を慮る苦しみは、私と何ら変わらないものなのだろう。
喉を巡っていた吐き気は消えていた。
ふつうのくつう
2023.03.08
Title...ユリ柩