公爵の策略 魔女の陰謀(本編) | ナノ

公爵様と働くお嬢様 2
 リゼは、早朝の牛乳配達を終えて---微々たる収入である---一度屋敷に戻る。給料を払え無くなった為に辞めて行った小作人や使用人が多くいた中で、一人だけ、それでも構わないからと言って残ってくれた執事のトルキン手製の野菜スープとパンで朝食を摂る。
 食堂として使っていた部屋の灯りが勿体無いから、厨房の机で父とトルキとリゼの三人だけの、それでも楽しい朝食を終えれば、また働きに行く準備をしなくてはなならない。
 母直伝の薬草やら何やらの知識を生かして始めたのはポプリを詰めた匂い袋や花の香水、薬の販売である。
 これがクロイツェル家の主な収入源となっていた。
 朝から昼過ぎまでは、街で首から下げた盆にそれらを入れ歩き回って売るのだ。夕方までは飲食店で皿洗いなどをして働き、完全に日が暮れる前に森で花や薬草を摘んで帰る。夕食がすんだら寝るまでは売り出す品物を作る。
 叔父の死から二年近くが経っていた。
 これがリゼの日常であった。
「おねえちゃん、リゼのおねえちゃん」
 黒いスカートの裾を、柔らかで小さな手が引く。
「あらどうしたのアリア、お使い?」
 其処は、白煉瓦で統一された街だった。海が見えるこの国はとれたての魚を売る声や賑わいが絶えない。
 大噴水がある時計塔広場で歩き売りをしていたリゼは、小さなお客様の目線にしゃがむ。ツインテールの可愛い女の子だった。
「違うの。あのね、アリアお母さんにひみつで来たの」
 初めての事なのだろう。
 アリアと呼ばれた少女は、興奮ぎみに喋りながらその手にしっかりと握ったこの国の硬貨を一枚リゼの前に差し出した。
「《鈴と椛と黒猫印》の匂い袋、ひとつください!」
 アリアの出した硬貨は下から四番目のコインで、まあつまり、匂い袋を買うには全く足りなかった。パンの一つも買えない。
「今日ね、お母さんのおたんじょうびなの。だからアリア、お母さんにね匂い袋あげる事にしたの」
 うっすらと汗ばんで笑うこの子はきっと一生懸命自分を探して走ったんだろうとリゼは思う。大好きな母親に匂い袋をあげたくて、喜ぶ顔が見たくて、硬貨を握り締めてここまで来たのだ。
 眩しかった。懐かしかった。
「そっか、アリアは壮大な誕生日大作戦を考えたんだね」
「うん!」
「じゃあどれにする? ラベンダー、カモミール…他にも沢山」
中身のポプリは勿論だが、袋もリゼが植物の染色液で染めた、全て一からの手作りであった。アリアが選んだ匂い袋を受け取り、小さな白い紙袋に入れる。芋判の赤い猫が良く映えて居る。
「はい、これでプレゼント完成!」
「ありがと! リゼのおねーちゃん」
「気をつけて帰るのよ? 大きな声でお母さんに"おめでとう"って言ってね」
 大広場は馬車や人が行き交う。広場は小さくも、温かな喜びで溢れいる。
「おねーちゃん、お代は?」
「当店は本日百人目の可愛いお客様からお代はいただきません」
 リゼは胸に手を当て、あたかもオペラへ淑女をエスコートする紳士の様に礼をしてみせた。小さなお姫様、どうぞお気を付けて。
「アリア百人目なの?」
「そうよ。だから、それもちゃんとお家に持ってお帰りなさい」
「やったぁ! ばいばいリゼのおねーちゃん」
「そんなに走ったら転けるわよー」
 リゼは、小さな背を見送って立ち上がった。黒いスカートが翻る。
「《鈴と椛と黒猫印》! 匂い袋に香水、薬ありますよー如何ですかー」

   □ □ □

 陽は大分暮れ、薄藍の空には微かに夕陽が覗くばかり。
 いつもと変わらぬ一日を終えたリゼは、帰路を急いでいた。
 今日は良い薬草があまり見つからなかったが街で嬉しい事があったのだ。先日のアリアとその母親に会った。アリアの母親であるマチルダが、リゼの作った匂い袋を誉めてくれた。母から教わった事で誉めて貰えるのは本当に嬉しい。家路を急ぐ彼女の頬は、うっすらと上気する。
 鼻歌混じりで家に帰ると珍しく、本当に珍しく客間に灯りがついていた。クロイツェル家が没落してから訪れる客は高利貸しの人だけだったのに。リゼは思う。嗚呼、何て素敵な一日なのかしら。
「ただいま戻りました。トルキンさん」
 いつも落ち着いている大好きな執事が、真っ白な髭を震わせて客間から飛び出して来た。
「お嬢様、落ち着いて下さいますよう」
 トルキンのちぐはぐな態度と言葉に、リゼは小さく笑んだ。
「何かしら」
「お嬢様にお客様に御座います」
私に? 昼間のお客様の内の誰かかしら、社交界で友人なんて作れやしなかったし。リゼは晴れやかな胸の内が曇るのを感じた。
「ローズヴェル公爵様がお越しです」
 誰。トルキンに引っ張られる様にしてリゼが向かった客間には、金髪碧眼の、いかにも貴族と言う格好をした男がいた。服の趣味はよくわからないが、悪く無いのは確かだろう。
「ああリゼ、お帰り。お前を待っていたんだよ」
 談笑していたのだろう。ソファーから立ち上がり、腕を広げた父のアダムスは、温厚が服を着た様な純粋培養の貴族だった。我が家の帳簿を任せる事は出来ない。
「公爵、こちらが私の娘のリゼです」
 にっこりと笑う公爵が実に胡散臭い。リゼは何だか嫌な予感がした。女の勘は案外当たるものである。
「お父様、この状況を簡潔にお答え下さい」
「えっとね、公爵がお前と婚約し「お父様、トルキンさん」
 あらびっくり。リゼは心中呟いた。私ってこんなに冷たい声が出せる人間だったのね。
「席を外して下さい」
「えっでも「外しなさい」…はい」
 アダムス曰わく、リゼが怒る時は亡き母に瓜二つだと言う。母譲りの酷薄なアイスブルーの瞳を怒りに染め、二人が出て行ってからリゼは"公爵"に向き直った。ソファーに座る事はしない。
「ご用件は」
「その前に名前を名乗っても?」
「その様な事、お気になさらないで下さい」
 笑顔は仮面だ。特に、口角を上げるだけのリゼの微笑は、強固であった。
「セフィルド・ウォルセン・ローズヴェルと申します。以後お見知り置きを」
 成る程。敢えて無視を決め込むらしい。リゼは自分の本名を相手に渡したりはしない。彼女にとって、本名の名乗りは丸腰と同じである。
「この様な事を、回りくどく言うのは好きではありませんから率直に申し上げますが。リゼ嬢、私と結婚しませんか」
 素っ頓狂な声を上げずに笑みを深くした己を、手放しに褒めてやりたいとリゼは思う。
「お断りします」
 何を言っているのだ。この公爵様は。初対面の小娘相手に、神経を疑う。
「何が狙いですか。我が家にはもう何も無いんです。それにこの通り私は髪だった短いですから」
 リゼは今や、家を守らなければならなかった。足下を見られては堪らない。
 そしてまた、この国では女は髪が長い事が美徳とされる。内緒で髪を切った日には、彼女はアダムスに大泣きされて居る。トルキンも唖然として立ち尽くして居たのは鮮明だ。
「セフィルドとお呼び下さい」
「質問に答えて下さい公爵」
 物腰柔らかに微笑む相手は油断ならない。リゼが、社交界に出て唯一学んだのがそれだった。
「貴女がいるでしょう」
「は?」
「貴女が何も無いと言ったクロイツェル家には"貴女"がいる。それで十分ではありませんか?」
「それは部外者の見解です」
 最早、公爵の言葉は侮辱に近い。彼は知らない。爪の先に火を灯す様にして切り詰められて行く生活を。火の車は直に灰となる勢いなのだ。
「これは失礼を。ですが、私が貴女と結婚したいと言うのは本当です」
「理解に苦しみます。お引き取り下さい…本当は今こうして使っている客間の蝋燭代だって惜しいのです」
 公爵と言うのは王族の親戚で、此方は見る影も無い没落貴族。伯爵と言っても貴族の"格"が違う。リゼ個人としては何ら気に止める点では無いが、世間の口は、そうはいかない。
「お断りします」
 公爵は、先程リゼが彼に答えた様に言う。その表情は何処までもにこやかだ。
「…警察を呼びますよ」
「私は貴女と結婚の取り決めか、婚約をするまで帰るつもりはありません」
「帰って下さい」
「私と結婚するのは嫌ですか」
「嫌です」
「どうしても?」
「はい」
「私がクロイツェル家の借金を全額肩代わりすると言っても?」
「……」
 クロイツェル家の醜聞は都中で新聞に取り上げられた。目の前の公爵が知っているのは当然だろう。
「上手い話には裏があるものです」
「裏だなんて、私はただ貴女と結婚したいだけですよ」
「…嬉しいですか?」
「え?」
「"そういう"のをお金で買って」
「ああ、貴女が言いたい事はわかりますよ。私も些かこういう手段はどうかと思いますが」
 セフィルドは出されていた紅茶を一口飲んだ。リゼは所作の美しさより、我が家に紅茶の茶葉がまだあったと事に驚く。
「仮に私が公爵と結婚しても、私は貴方を愛さないと思います」
「…やはり本人に言われるとキツイですね」
 セフィルドは苦笑してリゼを見る。造作の良い人間は全く得である。
「ではこうしませんか?…私は貴女と結婚したい。貴女は借金を返済したいが今私と結婚はしたくない」
「本音ではあります」
「なら婚約して下さったら私が借金を全額返済します」
「……」
「その代わり、貴女がこれから先誰かを結婚したいと思うほど愛すより先に私が貴女を振り向かせる事が出来たら、婚約通りに私と結婚して下さい」
「…その為の代価は?」
「代価?」
「例えば国外に出てはいけないとか、後になってやっぱり返済額分返せとか」
「ありません」
「なら貴方を私が愛さなくとも、借金は無くなるのですか」
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