公爵の策略 魔女の陰謀(本編) | ナノ

開幕の序章曲と夜歩きの役者達 15
 真夜中の風は、薄い紗のカーテンを揺らすだけでおどろおどろしい。
「誰だ、あんな所を開けたのは! 閉めて来い」
 グレンの声と、そちらに動く皆の視線。きっと、"彼"に必要だったのは小さな弛(たゆ)みであったのだ。
 強く張り過ぎた絃を緩めて調節する様な、僅かな"隙"。それが、王にとっては十分な機会(チャンス)。
 パリ---ンッ!!
 ガラスケースが砕ける音と、シャンデリアの明かりが全て消えるのは同時だった。視界を塗り潰す闇が、光に慣れた目を支配する。耳障りな砕音と闇と零時を告げるゆっくりとした十二回の音(ね)。
 そして、取り乱すなと命じるのグレンの声は容易く混乱の津波を呼び寄せる。
『---《太陽の雫》、確かに頂戴する』
 グレンの呻き声が、リゼの耳に届く。
 一体、どの様な手段を以てこの闇を移動したのか。
 既に屋根の雨樋に手を掛けた《陰の覇王》は、一方の手に女神像を持ち、其処に居た。
 笑っているのか泣いているのか。
 一枚で二つの表情を表す道化師の仮面が、リゼ達を見下ろしていた。
『ではまた、いずれ』
 庭に逃げるかと思われた彼は、驚いた事に、屋根に飛び移った。
 今更になってカンテラの灯りが点(つ)き始める。その、余りの手際の良さに魔術を使う事も出来ずにいたリゼは、我に返るとパチンと指を鳴らした。
「行くわよ、ヴィッツ」
 宙に現れた箒に横乗りになると、フワリと身体が浮上する。
「リゼ?!」
 グレンの声を無視して、彼女は窓から飛び出した。

  □ □ □

『警告! 警告! 速度違反デス! 使用者ハタダチニ速度ヲ規定以下ニ落トシテ下サイ』
「ちょっと黙ってなさい! 今忙しいのよ」
 見た目は蝙蝠の、自動箒減速警告機の"バット!ちゃん"がリゼの顔の周りを姦(かしま)しく飛び回る。
「リゼ。前見ろ、前」
 かなりの高速度で飛ぶ箒の後ろ。顔色一つ変えずに立っているヴィッツが、燕尾服を靡かせながら告げる。
 ヴィッツが"バット!ちゃん"をひと睨みすると蝙蝠は怯えたのか、シャボン玉の様に消えた。
 ちなみに、この自動減速警告機"バット!ちゃん"は箒を持つ全魔術師に購入が義務付けられた公認商品である。
「居た!」
 屋根の上を走る《陰の覇王》の背を見つけたリゼは、一気に正面へと回り込む。
『…----これはこれは。驚いた』
「こんにちは」
 トン、と彼女は箒から飛び降りる。
『今は夜だろう、嬢さん』
「《陰の覇王(あなた)》にとっては昼でしょう?」
『まあな』
 一歩前に出たリゼは、ディデルに手を差し出す。
「ねぇ、《陰の覇王》、良ければ私とワルツを如何かしら?」
『月夜のワルツか…魅力的な申し出だが、悪いな嬢さん。今はむさ苦しい男共とのチキンレースに忙しい』
「あら残念。手を掴んだらそのまま牢屋に連れて行こうと思ったのに」
『だからだよ---そこを退けてくれ』
 警笛と、此方にに近付く警官達の足音。
「い、や」
 リゼは笑顔できっぱりと答えた。
『嬢さん』
「だって私、貴方を捕まえようとしている一人だもの」
『頼むよ』
「後で捕まってくれるなら良いわ」
 恐らくは、九割方勘で身体を動かしたのだろう。
 ディデルは後ろに高く跳躍した。翻る闇色のマント。
「"捕食者の檻は蝶を絡める"」
 一瞬の差を経て、今までディデルが立っていた場所に、巨大な蜘蛛の巣がベトリと付着する。
『っと…危ないだろ?』
「大丈夫。怪我はしないもの」
『だからと言っても手加減無いな』
「"覇王"相手に手抜きをしてたら、不敬罪にならないかしら」
『言うねぇ』
 黒い布手袋をはめたディデルは、《太陽の雫》を軽く振ってみせた。
『警備隊も堕ちたものだ。嬢さんみたいな女の子を、この鬼事に引き入れるなんざ実に嘆かわしい』
「なら早く終わらせましょう。勿論、貴方が捕縛されると言う遊戯終了(ゲームセット)を要求するわ」
『俺としては"逃げ切る"って終わり方もアリだと思うんだがな』
「あら、まさか」
 月明かりで仮面の模様がわかる。
『どうしてそんなに懸命なんだ?』
「…秘密」
『困った嬢さんだ』
 ディデルの苦笑の気配は、余裕の構えだとリゼは知る。
「…逃げないの?」
『逃げて欲しいかい?』
 意地の悪い答えだ。形の良いリゼの眉が僅かに寄る。
『そりゃあ逃げるさ…嬢さんに捕まる訳にはいかない』
「どうやら私達に平和的合意は無理そうね」
『そうだな』
 先に動いたのは《陰の覇王》だった。
 身を翻して屋根の上を走り出す。地面を走る様にディデルは闇を駆ける。屋根から屋根へ。飛び移り、振り返らずに前にだけ。
 迷いの無い、その身のこなしは覇王の名に相応しい。
「待ちなさい!」
 だが、此方だって負けてはいない。
 都の地の利はディデルにあるだろうが、リゼには"闇夜の利"がある。
 飛行魔術を施した編み上げのブーツを履いている今のリゼは、脚力を強化出来た。追い掛ける事は可能だ。
「待ちなさいって言ってるでしょ!!」
『誰であれ、急には止まれないものだよ、嬢さん!!』
 叫び返すディデルに、リゼは顔をしかめる。
「なら改心して止まる努力をしなさいっ! 今すぐ!」
『はははっ! 嬢さんは面白いな』
 一度も捕まった事の無い"覇王"の異名は、どうやら伊達では無いらしい。
 グレンが言っていた通り、彼は異様に脚が速かった。
「貴方! 止まらないだけでしょ!」
『そうとも言う!』
 ディデルが脚をとめたのは、闇に立つヴィッツに気付いたからだ。距離を取る事は忘れない。
『あれ? あんた、この間時計塔に居た…』
 リゼとヴィッツを交互に見て、ディデルは首を捻る。
『嬢さんとはどういう御関係だい?』
「黙れよ三下」
『口の悪い』
 言うが早いが、ヴィッツは正面からディデルに蹴り掛かる。予想外の動きだったのだろう。ディデルの、道化師の仮面の下で息を呑む音が聞こえて来そうだった。
『?!!』
ディデルはそれを寸での所で避けると、二度三度と後退する。
『随分なご挨拶だな』
 ディデルを捕らえ損ねたヴィッツが、憚らず舌打ちをする。
「あんたに掛ける挨拶は無ぇよ」
 相手も頭を切り換えたのか、纏う空気が表情を変える。
『オイオイ、挨拶は潤滑な対人関係を保つ為の基本的行為だぞ?』
「なら良かった。生憎、俺は人じゃ無い」
『----へぇ?』
 興味を示した声。
『なぁそれ、どういう意味だ?』
 探る、鋭さ。極寒の砌(みぎり)、下がる氷柱の様な。
「知るか」
 風を切る動き。
『言ってる事が滅茶苦茶だ』
「どうでも良いんだよ」
 ヴィッツとディデルが格闘している間に、リゼは魔術を紡ぐ。
「"霞む雨は細い杭となれ。糸紡ぐ蜘蛛は鋼の網を所望する"!」
 捕縛の魔術だ。鮮やかな碧の、輝く閃光は一直線にディデルを目指す。
 しかし。
「「なっ?!」」
 リゼとヴィッツの声が重なった。魔術はディデルに命中しなかった。
 彼が魔術を避けたのでは無い。魔術が"彼を避けた"のだ。
 距離を詰めようと前に進み出たリゼは、ヴィッツに目配せをする。
 今、リゼとディデルは同じ屋根の上に。
 ディデルのすぐ左側は袋小路になっていて、その向こうの屋根にはヴィッツが立っている。
「逃げ場は無ぇよ、《陰の覇王》」
『挟み撃ちか…やられたな』
 肩を竦めた彼はマントを身体に纏わせる。蝙蝠の様だ。
『---だが、まだ甘い』
 その一言と共に、彼は屋根から脇の袋小路へと飛び降りた。
 背中から。
「あっ!」
 建物と建物の影が重なり合い、一層濃い闇の中へと、ディデルは一瞬だけ二人の視界から消える。
 リゼは慌てて袋小路で唯一の、通り面した出口に目を向ける。
 飛び降りたならそこに現れる筈だ。出口はそこしか無い。
 けれど。
「…居ない」
 袋小路になったその場所で、《陰の覇王》は忽然と姿を消していた。
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