Auravictrix:本編 | ナノ
Auravictrix 13 ← → 始まりが何であったかなど、最早無意味だ。時は非情であり、誤魔化しようの無い現実は同時に虚偽である
「この視察が貴国と我がリュケの、益々の交流に繋がる事を信じていますよ」
「技術者の育成には、微力ながら御協力致しましょう」
ヒュドラストが、リュケの国防省長官と握手を交わす。仰ぎ見れば快晴の空。その空と同様に、両国の関係にも暗雲に染まる事が無ければ良いと、シャーゼロックは後ろ手を組み直立不動の姿勢で思った。
水平線に不審な影は無い。港街でよく見掛ける、けれども名を知らぬ白い鳥ばかりが翼を遊ばせている。
耳に取り付けられた小型無線機から伝わる、監獄船の内部情報が平和な風景とは対照的だ。
『捕捉範囲内に不審船は見当たりません』
『動力系に異常無し。空調設備点検に移行します』
歳月が作り上げた仮面の下、シャーゼロックは思考を切り替える。三文芝居にも劣る、類似した場面の繰り返し。外面ばかりが優れている。
「彼が、SRのトップですよ」
「お会い出来て光栄であります、長官」
どの口が物を言うか。内側から外界を眺める己が、そう囁いた。お前が無意味な時間を垂れ流しにして居る間も、ニサは銀色の寝台に身を横たえているのに。こんな。
『ニサッ!! お前も来い!』
だからなのか。あの、瞬間。ディアギレフの叫び声が鼓膜を震わせた時。シャーゼロックは、彼の行動に爆発的な妬みを感じさえした。許せない、許すものかと。ディアギレフだからこそ、だ。きっと他の誰かであったなら、それこそ失笑して捨て置いただろう。
シャーゼロックが長く歳月をかけて築いて来たあらゆるものを、意図も容易く飛び越えて行くあの男。二人の間には決定的な相違点がある。
鈍器で殴られた様に、揺れた理性。焼け爛れた思考。噴き出したどす黒い負の念。
ディアギレフがニサを連れ去る映像が、容易く脳内で構築出来た。わらえる。
けれど。ニサが"外界"に踏み出す事は必要なのではとも思う。どの様な方法であっても、彼女をチェルニチェヴァから引き離そうと叫んだディアギレフの方が、まだマシではないのか。
(…少なくとも、俺よりは)
ヒュドラスト達の後ろに従いながら、シャーゼロックは見慣れた門扉を潜り抜けた。出口は何処だ。
□ □ □
「よーし…良い子だ」
レギは黒い液晶画面を流れる黄緑色の文字を絶え間なく追っていた。絶妙なタイミングでミス無くキーボードを叩く指先は、血染めのカットラスを振るう事もあるのだと言う事実からは、かけ離れて見えた。
サー=ヴァルターギュ船内。ディアギレフの意向を叶え様と、レギは自船のマザーがある部屋に籠もっていた。
チェルニチェヴァのマザーが"味方"と認識する識別コードは、言わば制服と名札の役割を持つ。
それを盗み、纏ってしまえば中身の違う"職員"の出来上がりだ。マザーに悟られる前にチェルニチェヴァの内部構造を見付け出せば、ひとまずレギの一勝。ジャッジを下すのは、時間と言う名の審判員である。
「そのまま眠ってろよ、マザー」
3、2、1…。データの読み込み完了を示す表示に、レギは僅かに口角を上げる。パスワードとIDコードは手に入れた。
「邪魔するぜ」
Enter。
さあ、鬼ごっこの始まりだ。
□ □ □
サー=ヴァルターギュ号の甲板で、空を仰げば青かった。雲は無く、少しばかり風がある。けれども穏やかと言うには十分な、凪の静寂も、嵐の恐怖も無い、優しいばかりの海だ。
ディアギレフは深く息を吐いた。潮の匂い。海面は太陽の光を反射し、キラキラと白い。
この海の、空の続く場所にまた、チェルニチェヴァが進行している。その中に、ニサも居る。
「…嵐の前の静けさって奴か」
今回の潜入は、余りにもディアギレフの勝手だ。仲間達が彼の我が儘を聞き入れてくれて居るだけで、船や船員の利害とはかけ離れた場所での問題である。
だからこそ、一度きりだ。チェルニチェヴァ側の人間をどうこうするのは、この一度しか許されてはならない。
「…ニサ」
二カ月に満たない時間の中で、手に入れたニサの情報など本当に僅かだ。引き返し、再び彼女の前に立った時、ニサは一体どんな反応を示すだろうか。あの無表情を幾らか崩し、呆れるだろうか、失笑するだろうか、それとも純粋に驚きを見せるだろうか。拒絶を、するだろうか。
その姿を思い描く事さえ出来ない。それ程に知らない。けれどもそんな女を、ディアギレフは攫おうとしている。一方で、ニサがこの甲板に立つ姿は容易に浮かぶのだから、自分でも笑うしかない。
どうする。一分、いや一秒でも遅く敵に侵入を悟られない様にするには、どうしたら良い。どうやってニサを説得する。すんなりとディアギレフの意向に従うとは到底思えない。まず間違い無く、最大の難関はそこだ。その程度しか解らない。
そもそも、彼女に対する作戦なんざ、ありはしないのだ。ディアギレフがどれだけ直接的に言っても、その言葉を目を閉じてかわすなど造作なくやってのける。
ああ、眩しい。
「なにシケた面してんスか」
ユグだ。古参の連中の中で、最も年若い彼は、ディアギレフから数歩の距離を保って立ち止まる。
「酷いっスよ。レギの手料理(めし)食った時のカスティロみてぇな顔でした」
「ははっ、そりゃ確かに酷いな」
ディアギレフは笑ってみせた。ユグの視線が僅かに険しさを増す。
「俺は!!」
ユグは声を張り上げた。驚きにディアギレフが息を詰める。
「腑抜けを自分の王と仰いだ事も、腑抜けに付いて来た覚えもありません!」
瞠目した。
「今以上にキツい事を、俺達は乗り越えて来たんだ。キャップは好きにしてりゃあ良いんです」
キャップの我が儘には慣れてますし、あんたの我が儘に付き合えるのは俺達くらいなもんなんスから。
「違いますか」
「…そりゃそうだ」
何だ。これ程にちっぽけな事だったのか。"向こう側"との間に口を開ける闇の底は、飛び降りたって怪我のしようが無い位に浅かった。
「なら思う存分好きにさせて貰う」
「今更っスよ」
飛び越え様とする闇の深さが見えなかったのは、ディアギレフの心情が靄になっていた所為だ。
ディアギレフがこうしてサー=ヴァルターギュ号を自分の船として持つ様になる以前。別な船の船員として、日々を過ごしていた時代。同じ船に、ユグもいた。
彼は海で拾われ、船で育った。生粋のwalkerだ。餓鬼の時分からディアギレフの後について歩いて来た、言わば弟分であった。
ユグに励まされるとは。弟だと思っていた男が、いつの間にかその背中を大きくしていた。
「俺達には、目的を掴む為の腕と、目的(そこ)に至る為の脚があるんスから。我武者羅に動かしてなんぼですよ」
「そう、だな」
そうだ。一度きりしかない「今」だ。ましてやこれから訪れる未来(さき)の事。あれこれと思い悩むのも時には必要だが、それだけでは進めない。必ずその先には、決断と言う二文字が無ければならない。
仲間達が、手を貸してくれているのだ。あらゆる手段を、力を、ディアギレフの前に差し出してくれている。迷うな。躊躇うな。
これからディアギレフが対峙しようとする相手は、迷いや躊躇に費やす暇を許してくれる様な、甘っちょろい男達では無い。その"隙"は、敗北に直結する。
今出来る事に、全力を尽くせ。
兎に角、今ディアギレフに出来る事は、チェルニチェヴァの内部図を頭に叩き込み、優秀な副船長殿の意見を参考にして、海に浮かぶあの監獄を、如何にして機能停止に追い込むかである。
気負うな。呑まれるな。自分に、負けるな。胸を張って、上を見ろ。
「まだスタートラインにさえ立ってない。ピストルの音だって聞こえちゃい無い」
ユグが笑う。何か仕出かす前の、企んだ笑顔。だったら。ねぇ、キャップ。
「やりたい放題ってやつッスよ」
俺達は、Walkerだ。
□ □ □
連綿と続く、それは轍か。或いは、深く打ち付けられた楔か。柵と呼ぶのは生温(ぬる)い。
我々は最早、終止符を打つタイミングを忘れてしまったのだ。終焉など赦され無い。途(みち)は我々の背後に、造られたそばから瓦解して行く。
今と言う刹那にしがみつく、その無様な体(てい)こそが、我々が我々たる証とでも言う様にして。
人類が箱庭の舞台で踊り狂う、これは喜劇か悲劇か。目を向けるべきは、役者を照らすスポットライトの先では無い。
観客席に座る、ただ独りの影。それこそが、全ての解(こたえ)だ
チェルニチェヴァは巨大であった。その規模も、保持する情報量も、組織を形成する無数の歯車(にんげん)の数も。
全てが巨大であり、またAREA02研究に対して、当時の大陸のどの政府機関よりも先に着手したと言う自負が、その名前に付加価値をつけた。
時を経るごとに、その自負は他を含めたAREA02研究組織内での立場の優位性へと変化する。何事も後手に回れば仕損じると言う事だ。
「何時までも、己(おの)が座が山の頂きにあるものでは無い事を、教えてやらねばな」
それはチェルニチェヴァと言う怪物の足元で、何年と息を殺して過ごして来た、"妖精"の宣戦布告であった。
北の多国籍国家・NF(Neutral Field)。
【氷片に舞う妖精】と渾名される彼等は、遂に"歴史"に胡座をかいた老獪の腹に踏み込む機会を悟ったのだ。
----あの耄碌(チェルニチェヴァ)に。
「コーカスレースの、果たして勝者は誰であろう?」
スタートラインも、ゴール地点も定まらぬ、始まりさえも同時ではない出鱈目な競い合い。
囁いた唇は、三日月。
1109023 ← → ここまで読んだよ!報告