Auravictrix:本編 | ナノ

  Auravictrix 9 
 一ヶ月と半月だ。ディアギレフは宴の最中に、己がチェルニチェヴァで過ごした時間を知った。
 そのたかだか一ヶ月と半月の間は、単調でありながら随分と濃密であった様に思う。きっとあの白い独房が、常に行動範囲の全てだった所為もあるのだろう。
 冷たく固かった床は、スプリングのあるベッドに姿を変え、白い視界は見慣れた自室の天井になった。
 ディアギレフは一人、その天井をベッドに仰向けになって見上げる。
 帰って来たのだ。己が在るべき場所に。深呼吸。彼は疲れていた。瞼が重い。だと言うのに、頭の中では同じ記憶が焼き付いて離れない。
 あの眸(め)。刹那に見た微笑み。拒む菫色。軋んだ胸の奥。
 ディアギレフには解らなかった。共に来いと言った、その言葉に、気持ちに偽りは一切無い。だが、何故そう言ったのか。己が叫んだ理由を問われればどうだ。言葉に詰まる自分が居る。
 助けてもらったのは事実だ。ニサの存在が、ディアギレフを生かしたと言っても過言では無い。無い、のだが何か違う。
 衝撃ではあった。彼女の行動は、ディアギレフの予想の範疇には無かった。あれが単なる脅しには思えない。ニサは本気だった。
 出口の無い思考。永遠に続く迷宮の様だ。行ったり来たりを繰り返し、出口の向こうにある何かに必死に辿り着こうとする。胸中に同居する虚無感と苛立ちに、ディアギレフは瞼を閉じた。
 まるで己が他人に思えた。全く解らない。どれ程の苦境にあっても、何がしたいか、何をすべきかは明確であった。選択に迷いはしても、選択肢が手中に無かった事は無いと言うのに。何故。
----俺は一体、何を望んで居る。どうしたいって言うんだ、ディアギレフ。
 針路はAREA02に向けられている。船長たるディアギレフの、Walkerである彼等の、当然あるべき針路だ。
 歩んで来た背後には、常に途(みち)が作られた。胸を躍らせ見据えるは、常に前から訪れる未来ばかりであった。
 ディアギレフは、初めて己の針路を疑った。疑ってしまった。ぞっとする。
----私は自由だ。
 そうだ。思えば、彼女がそう口にした時が一番苛立ち、不快だった。今思い出しても、変わらない。
「……」
 無意識に、ディアギレフは奥歯に力を込めた。せり上がって来る苛立ち。底光りする眼孔。嗚呼、不快だ。
 なら原因を断ち切れば良い、と。知らず囁き、ふと気付く。今までは決まってそうして来た。だが、今回ばかりはそうもいかない。ニサをチェルニチェヴァに置いたままにはしたくない。だが、断ち切りたいとも思っていない。
 言うなればそう、"解(ほど)きたい"のだ。何処も彼処も矛盾だらけだがしかし、その矛盾こそが正直なディアギレフの気持ちである。
 そんな言葉にどれ程の差があると言うのか。大した事では無い。つまらない、下らぬと一掃されればそれまでだ。だが思う。
 解きたい。
 がらん締めにされている様に見えた。ニサの身体を見えない透明な縄が、何重にも数を重ねて蜷局を巻く。腕を、脚を、首を、そして心を。捕らえて離さない。視界には目隠し、塞がれた聴覚。囲われた"状況"の壁。光が射し入らぬ密室。
 "ニサ"はきっと、その中に居る。

  □ □ □

 刻は夜半。
 バルドーはボトルに直接口をつけて酒を仰ぐ。喉を過ぎる甘露は"奪還"成功の祝杯に相応しい。
「逃げられちまったな」
 先程までディアギレフが座って居たその場所に、今はバルドーが腰を下ろす。
「盗み聞きか、趣味が悪(わり)い」
「聞こえたのさ、不可抗力だ」
 何時にも増して眉間に深く皺を刻んだレギは、舌打ちをして煙草に手を伸ばす。
「…どう考えたって無理だろ」
 吐き出されたレギの言葉に、バルドーは笑った。時間稼ぎだ。
【雷霆】に"飼われてる"奴をどうやって信じろって言うんだ。確かに助けてくれたんだろう、あの人が言うんだ。でも、だからって。
「俺は全てに目を瞑る事は出来ねぇ」
「まあ、お前の言い分は尤もだがな」
 バルドーはレギの意見を理解出来た。副船長たる彼は、船長(ディアギレフ)の命令の次に、船員の安全を第一に考える。そこについては、一度も揺らいだ事は無い。サー=ヴァルターギュ号に"危機因子"を招き入れたいとは思わなくて当然だ。
「名前、何て言ったっけな」
 バルドーは瓶底を僅かに舐める酒を見た。レギは煙草を灰皿に押し当て、残り火を揉み消した。あの女。
「ニサ、だろ」
 離れた輪で、ユグが飲み比べをしていた。仲間達は顔を真っ赤に赤らめて笑う。はやし立てる奴等。
 崩させやしない。
「ディアギレフだって迷ってんだ、きっとさ。その辺りを考えねぇ訳じゃねぇさ」
「……」
 バルドーの言葉をレギは心中で反芻して思う。なら、散々に迷って辿り着いた解(こたえ)は絶対だろうよ。
 あの男は、そう言う男だ。学がある訳でも無い。単純で、何時まで経っても子供(ガキ)っぽい所がある癖に、誰よりも折れない信念に従って生きる。
「バルドー、お前はどう思う」
 バルドーは酒を飲み干す。レギはバルドーの答えを待つ己に、随分と醒めた気持ちを自覚した。
----本当は、訊かなくたって解ってんじゃねぇのか、俺は。
「まあ、確かに無条件で信じれはしねぇだろうが。でも、そんなもんは相手を知って行きながら積み上げれば良い話だろう」
 それに、船長(あのひと)の決定なら、初めから結果なんざ一つだけだ。
「ディアギレフが其奴(そいつ)をこの船に乗せたいって思うなら、それで十分だと、俺は思う」
「……」
 例えば。ニサがそこらの酒場や飲食店で働く女だったなら。レギとてバルドーと同じ理由で肯いただろう。だが、女は今尚チェルニチェヴァに居て、その前にはシャーゼロック達が居るのだ。再び危険を犯して引き返す行為が、どれ程に愚かしい事か。
「その内、どうするか言って来るだろ」
 取り敢えず、その時は歯を食いしばって貰おうかと思う。

  □ □ □

 老人は人生の全てを研究に捧げていた。研究こそが彼の歩んで来た人生そのものであった。
 アーガスタス・ミケロ博士は、AREA02研究の権威と世界的に名高い人物であった。
 彼の研究資料は各国にとって、正に垂涎の代物であり、博士の研究成果をいち早く知る事が、AREA02の謎を解く、一番の有効手段とまで言われていた。
 よって、博士の身柄を確保する事は、他よりも一歩どころか数歩は確実に先を行く事と同意だ。
「ヒュドラストに叱られたらしいのう」
 完全な白髪と、蓄えられた顎髭。背の低い、相応に痩せた体躯を包む白衣。ファンシーなクマの顔のスリッパ。年がら年中、首に巻かれた黄緑色のマフラーと同じ、若草色の瞳には不思議な深みがあった。
「儂の可愛いニサを叱るとは、怪(け)しからん若造じゃ」
「…博士」
 アーガスタスはニサに笑いかける。場所は博士の研究室だ。特殊な硬質ガラスを隔てて、二人は会話する。
「Walkerを逃がしたとか。実に興味深い」
 手錠をしたままニサは椅子に座る。腕は椅子の背の後ろに回されていた。そんなニサを見て、アーガスタスは何処までも穏やかに"笑いかける"。
 ニサが隔離されている部屋の外は、常人には目的さえ解らぬ機械で溢れていた。
 床に延びるコードの多さ。怪しく光る液晶画面。無数のキーと、夜光虫の様に点滅を繰り返す光源。
「何故そんな事を?」
「博士はそれを知ってどうするのだ」
「結果には過程があり、起因があるものだ。儂は己の好奇心を満たす事が出来る」
 科学者は己の好奇心に従順なものだ。
「話したくない」
「お前が儂に隠し事とは、寂しいのう」
「反抗期だ」
「これはまた、新手の冗談じゃの。お前はもう、そんな歳でもあるまいに」
 ポケットに仕舞われた両の手。
「ニサ」
----儂はお前を、手放したりはせぬよ。
「儂の傍が、お前の居場所だもの」
「…解っているよ。アーガスタス博士」
 にこり。老人は目尻を細め、至極嬉しげに微笑んだ。

101021
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テーマ「人外ファンタジー」
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