Auravictrix:本編 | ナノ

  Auravictrix 7 
「困るのだよ。そう言う事をされると」
 男は至極穏やかに、まるで物分かりの悪い子供を諭す様にして、口を開いた。
「君が犯したのは逃亡幇助。投獄中の"零級"を逃がしたとなれば、立派な叛逆罪だ」
 だらりと横たわる四肢。起きているのだろうか、閉じらた瞼は固く、白い。
「更に言えば"脱獄"。犯罪者に対する助命行為」
 一体、幾つ"前科"を作る気だね。男は鉄格子の向こうに語り掛ける。鮮やかな緑のレーザーが鉄格子の間を縫う様にして正確な網を作っていた。二重の檻だ。
「何時の間に口がきけなくなったのだ」
 それとも、本当に縫い付けて欲しいのかね。
「……」
 菫色の瞳が世界を映す。鉄格子から見える場所だけが、彼女に与えられた"世界"の全てだった。少なくとも、男が与えたのはそれだけである。
「お目覚めかな、ニサ」
 欠落した眸(め)だ。恐怖や憎悪、虚無さえ宿らぬ空っぽの、瞳。
 ジャラリ。鉄の手枷が鳴る。ディアギレフのそれとは真逆で、真っ黒に塗り潰された独房は、彼女を呑み込もうとする口腔を思わせた。或いは、既に胃袋の中か。
「ヒュー」
 それは男のプライドと、職階を無視した呼び方であった。ヒュドラスト・トルカッティーニ提督。チェルニチェヴァの最高権威者だ。その胸には半世紀近くにも渡る監獄船での従職の日々の中で、彼自身が勝ち得た武名勲章が輝いていた。
「お前の負けだ」
「…まさか、自分が勝利したとでも?」
 ヒュドラストの眼差しが幾らか尖る。ニサは、否と首を僅かに横へ振った。
「勝ったのは私ではない」
 ディアギレフ・ロウだ。お前の完敗だよ。私は初めから"外野"だもの。今度の事は、監獄船を率いるお前達【雷霆】と、Walkerの問題だ。
「…出しゃばりな外野が居たものだな」
「何とでも言うと良い」
 負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
「では、既に勝利した気で居る君に言おうか。連れ戻せとは言わない」
 始末して来い。
「……」
「自業自得と言うのだよ、ニサ」
 やはり、ヒュドラストはこのチェルニチェヴァに於いて絶対だった。
「また、"あの部屋"に戻りたい訳ではないだろう?」
 何故解らないのだい。君の余計な行動は、己の首を絞める結果にしかならないと言うのに。学習し給え。
「これは命令だ」
 ヒュドラストを見詰める彼女は相変わらず真顔だ。手許を見ずして、ニサは手枷を外してみせる。ガシャン!!
「君の前では手枷足枷も、強固な檻も意味を為さないらしい」
 恐ろしい子だよ、全く。ニサはその言葉に何も返さなかった。捕らえたままの眼差し。
「----それでも、お前は負けて居るのだ」

  □ □ □

「そんな安い挑発に、俺が乗るとでも思ったのか」
 独房で、脳味噌が溶けちまったかディアギレフ。シャーゼロックは大きく息を吐(つ)いた。
 彼は知っていた。脳裡を掠めた人物。確かにチェルニチェヴァに、女の"看守"は一人と居ない。
 シャーゼロックはディアギレフに、嘘は吐かない。
「居た所で、その問題を処理するのは内部調査局の管轄だろうよ」
 つまり、俺は心置きなくお前の相手が出来る訳だ。
「…つまんねぇの」
 ディアギレフとて、易々と事が運ぶとは思って居なかった。ただ、試してみただけである。それで解れば儲けもの、程度だ。
 シャーゼロックは一度、ディアギレフとレギから距離を取った。
 レギは周囲を確認する。未だ退路は開けず、戦闘は苛烈を極めた。無人のトレビシックとの距離を目算する。シャーゼロックの攻撃を避けて乗り込み、非交戦距離まで上昇する"数秒間"を、如何にして手に入れるか。
 三人の間は再び、張り詰めた空気に包まれる。身を刺す…否、斬り刻む様な殺気の渦。それに気付いた者達は、遠巻きに息を呑んだ。
 シャーゼロック・ビショップ、レギ・エブラハム、そしてディアギレフ・ロウ。
 世界的に名の知れた男達が、其処に居た。今、この瞬間を目にした者達によって、また語り継がれる事となるだろう"物語"を織り成す。
 彼等が地を蹴ったのは、同時だった。

  □ □ □

 SA01暦152年8月2日
 AREA01 Big5-W:E P.M.1:28_


「実に良いじゃァねぇか」
 エル=ドゥナ南西部。広大なザグザ砂海を進む戦艦があった。その艦体に大きく描かれるのは、"スフィゼッタの首切り騎士"。馬上の黒き騎士は、大斧を手にする。
 灼熱地獄の下、パラソルを出してビーチチェアーに腰掛ける男。白い一歩脚の丸机の上には水色のカクテル。添えられたらハイビスカスの赤が鮮明だ。軽快な音楽を流し続けるラジオ。
 男は現在の状況に満足していた。部下から齎されたチェルニチェヴァの情報。
 この一ヶ月半、あのディアギレフ・ロウが捕縛されたと言う事件は、Walkerの間でも大いに関心を集めていた。
 男もそのWalkerの内の一人であった。ミネルド領海を航海中のチェルニチェヴァを、更に言えばその中央管理室を電波ジャックさせ、交信内容を盗聴したのだ。
 そして、やはりと言うべきか、ディアギレフとその仲間は暴れ回っている。
「愉快なもんだぜ」
 これでまた、AREA02が賑やかになる。やっぱり、こうでなくっちゃなァ。上機嫌に鼻歌を歌う男は、胸ポケットの携帯電話に手を伸ばした。
「ドュラン、進路変更だ。空路でAREA02へ向かえ」
『…了解しました』
 AREA02の空が恋しくてならねぇ。エル=ドゥナの空には飽きちまった。
 ギュスターヴ・ココはそう言って、ペロリと下唇を舐めた。

  □ □ □

 それは、常識の速度を超えていた。三人共が人間離れした身体能力を有している。剣の一振り。その軌跡をも知り尽くし、一人と二人は重い一撃を繰り出す。
「…勝負あったな」
 剣を弾かれ、得物を失ったのはシャーゼロックだった。彼は無言のまま、ゆっくりと両手を顔の横に。背後、後ろ首から数ミリの距離で、ディアギレフの愛刀が牙を剥いている。
 レギがトレビシックに一番近い。目配せ。左側からシャーゼロックに銃口を向けながら、レギはトレビシックに足早く歩む。
 始動。
「そこまでだ。ディアギレフ・ロウ」
 ディアギレフは瞠目する。だが、切っ先は静止したままシャーゼロックの命を握っていた。
「…おま、え」
 いよいよ状況が解らない。ディアギレフが纏う囚人服と同じものを、何故"彼女"が着ているのだ。
「シャーゼロックを解放しろ」
 その脚に軍靴は無い。素足。銃口を突き付けたまま、ニサはディアギレフへと歩み寄る。
「何で来たんだ、ニサ」
「それは愚問だ、シャーゼロック」
 シャーゼロックの渋面を、ディアギレフは知らない。
----次に顔を合わせたら、銃口を向け合う事になるかもな。
 確かにそう言ったのは己であるのに。何故だ。こうして現実に起こり得るまで"有り得ない"と考えていた。
 これが彼女…ニサの言う"本来の務め"なのか。
「ッ!!」
 銃口が火をふく。

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