※主人公の名前は石田



エントランスのソファーにもたれて座っている彼を見て、ひどく不安になった。彼はこんなに青白く冷えた頬をしていただろうか。唇は、指先は、こんなにもかさついていただろうか。拭えない不安を手に持ったまま、私はただいまと呟いた。
玄関の辺りを行き来していた視線が、私の顔近くでぴたりと定まる。ふわり、空ろな表情がやわらかくほころぶ。良かった、いつもの彼だと安堵する自分に違和感を覚えた。いつもの彼というには私は彼のことをあまりにも知らない、はずだ。だのに。

「お帰り、風花」

「…ただいま」

ゆかりちゃんと友達だというだけが共通点の、あまり話したこともない私を、彼は名前で呼ぶ。不思議なことに、不快だとはこれっぽっちも思わない。ただどうしようもなく泣きたいような奇妙な感覚が残るだけだった。

少し迷って、彼の真正面のソファーに座った。今日するべきこともなかったし、そうしなければいけないような気がした。彼は私の顔を見つめたまま、何度もまばたきをした。それが彼のよく浮かべる表情の一つだと思い当たった瞬間、私の中でむくりと何かが頭をもたげた。

「石田君は、これでよかったの?」

私の唇は別の生き物のようにするりと言葉を紡ぎ出す。私自身は困惑していたし、彼はとても驚いていたように見えた。彼は石灰色の瞳を大きく見開いて私を凝視していた。つるつると乾いて、ものを見ることを放棄した瞳だった。

「どうして、」

「だってゆかりちゃんも順平くんも、私も、石田君のことがすごく好きなんだもの」

こんなの、ずるいよ。
ほうと息をついて、私はソファーに寄りかかった。こんなに慎重に言葉を選んで喋るのは随分久しぶりだった。内容は分からなくても、これだけは伝えなければいけないような気がした。

不意に彼が立ち上がった。ぎしりとソファーが怯えたように悲鳴を上げる。悲鳴につられて彼の顔を見上げた私は思わず凍り付いた。彼はこちらを見て笑っていた。いつも浮かべている薄く透き通った笑みではなく、爛熟して腐り落ちる寸前の林檎のような、甘ったるい笑み。生き物として、終わってしまった笑み。

「ありがとう、やっぱり風花は優しいね」

「でも僕はいいんだ。あいつを独りにしたくない」

おやすみ、また今度。同じ顔をしたまま、彼は動けない私に言った。こつこつ、足音が遠ざかっていく。何か言わなくちゃ、と必死に言葉を探したけれど、唇がわなないて、上手に声を出すことが出来なかった。

とうとう足音は完全に聞こえなくなり、無音のエントランスには私一人が残された。また今度がないことなんて、とうに分かっていたのに。いやにひりつく目もとに触れて、私は初めて自分が泣いていたことに気が付いた。


(3月4日の夜)


2012021019




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