動くなよ。静かな、それでいてよく通る彼の声が室内に響く。たったそれだけの言葉で僕は痺れたように動けなくなる。
膝を小さく畳んで足首の前に腕を回す、赤子のような体制。指を固く閉じて、目玉だけをついと動かした。 少し離れたところにいる彼は、ひたすらキャンバスとにらめっこ。校庭から聞こえていた筈の野球部だか何だかの喚声は、いつのまにか消えていた。木炭の走る微かな音と、室内に充満するつんとした絵の具の独特な臭い。それだけでこの世界は完成されていた。
ふと、キャンバスの向こうにいる彼と目が合った。眠たそうな灰色が僕をじっと見つめている。それは金属のようにひんやりしていて、まっすぐ僕を見つめている。この内臓から何まで全部透かされそうな強い視線が、僕は一番好きだ。負けじと見つめ返していると、突然彼はぱたんとスケッチブックを閉じてしまった。視線はもうあさってに向いてしまっている。帰るぞ。木炭を元の場所に戻しながら彼が言う。この言葉を合図にして、僕の役目は終わる。残念な気持ちを抱えて、僕は姿勢を解いた。


「なんで僕をモデルにしたの?」
コーヒーカップに口をつけ、尋ねてみた。彼はシナモンのドーナツを口の中でもぐもぐさせながら怪訝な顔をする。 僕がモデルをするようになってから毎日、僕らはシャガールへ行くようになっていた(彼曰くモデル代、とのことらしい)。

「…なんで、って」

「だって僕じゃなくても良いモデルさんになりそうな子、いっぱいいるでしょ?」

ずっと不思議に思っていた。ゆかりさんも風花さんも可愛いし、アイギスさんなんてフランス人形みたいに綺麗なんだからぴったりじゃないだろうか。彼だって、わざわざ男の方を描くより、女の子を描いた方が楽しいだろうに。彼はゆっくりと咀嚼しながら、何か考えているようだった。店内のざわめきが緩やかに僕と彼のあいだを流れていく。彼の唇が数秒、迷うように動いた。

「…目が、」

「え?」

「お前の目が綺麗だと思った。なんかこう、すごく生き生きしてて僕にはないものみたい、な」

だから描いてみたくなった、それだけだ。そう言い切って彼は新しいドーナツを食べ始めた。照れ隠しか、さっきよりも速い速度でドーナツが減っていく。簡素な言葉に、心臓の辺りがじんと熱くなる。嬉しい。今の僕はきっとだらしない顔をしている。僕も彼の目が好きだ。絵を描いている時の冷めたも、順平やゆかりさんたちと一緒の時の穏やかな眼差しも、全部好きだ。彼の石灰色の目が見ている僕は、どんな姿だろうか。好奇心がむくむくと沸き上がってくるのが自分でも分かった。

「さっき描いてた絵、今度僕にも見せてよ」

「……完成したらな」

「本当?楽しみだなあ」

ふふふと笑う僕が気味悪かったのか、彼はじろりと半眼で僕を見た。そんな眼差しすらも魅力的で可愛い、なんて思う僕はきっとばかになってしまったんだろう。






20120606







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