夏でも山の上はまだ肌寒く、虫の鳴き声もまだ聞こえてこない午前。

ごく一般的な和食で揃えられた朝食を食べ終わり、うっすらと汗をかいたグラスの麦茶を飲み下した。
今朝でちょうど、ここに来てから三食分の食事がつつがなく終わった事になる。

部屋の端にまとめてあるバックパックの中には最低限の旅行の荷物とそれだけはと都会から大切に持ってきた天体観測用の道具が一式詰まっており、その中には夜の観測で書いたレポートと天体写真が増えていた。
それらを見てこれからどうするのかまた考え込んでしまう。


昨夜のうちに旅館の主人に聞いた話では、この村に食べ物やその他の物品が手に入る商業的な施設は一切存在しないのだと言う。
必要なものは山を下った先のここから一番近い、近いといってもかなり遠くにあるここの前に遊星も立ち寄った村から月に一度だけトラックが売りに来るのだそうだ。
運悪く今月は遊星が到着する一週間前に来たばかりらしい。

この旅館がなければ着いて早々に手詰まりしていたところだった。
宿泊できる場所がなければここに実際に訪れる事もなかったのだろうが、それで諦めるには勿体無過ぎる素晴らしい景観が見られた。昨日はそれで遅くまで没頭しすぎて、今朝はやや寝不足気味だ。


食器を下げて一服すると、本格的にやることがなくなった。
ここに来るまでの道のりが長距離移動だということはわかっていたので荷物は最低限生活する分しか持って来てはいないし、夏休みの残りすべてをここで使うつもりだったので大学の課題も早々に片付けていた。
天体以外にはたいした趣味もない遊星だ。夜までの間やることがないくらいなら苦痛でもない。日が落ちるまでは、ここで山を眺めているだけでも十分なのだが。

結局は何の目的もないまま、朝の日差しが照る夏の外に出た。
快晴の山頂の爽やかな朝だというのに、相変わらず住宅密集地に出ても人に会うことはない。昨夜店主に聞いたとおりの村なら、こんなものかもしれない。
気温が上がってきて蝉の鳴き声が始まる。一週間の命しかない彼らは、まるで逆にますます生命を削るような勢いで一日を燃やしていく。そういう存在から見たらただそこに何もせず立ち止まって居られる人間こそが、理解のできないモノに違いない。

自分自身を使い果たすこと、地中に数年間眠り続けることを、怖いとは思わないのだろうか。
物言わない蝉達の森林を通り過ぎていく。このまままっすぐ進めば、昨日も来た何もない森の中に入る。少し迷って、遊星は午前でも暗く音のない森に入っていく。
その場所は昨日着たときと変わらずにひっそりと佇んでいた。遊星が入り込んだことは意に介すことでもないというように、その足音すら飲み込んで静寂を保っていた。まるで、外のことには何も興味がないように。
人の気配がまったくしない住宅地がここよりはまだ安心感がある気がするのは、そこに人が住んでいるとわかっているからだろう。ここはそれすら感じさせない。この森が村ごと時をのみ込んで静止させているかのようだった。


頭を振る。そんな筈がない。歩きながら考え事をしていると、内容もどこか脈絡のないところに転がっていってしまうようだ。
やはり戻ろうか。夜になるまで大人しくしていようか…。そう思い、踵を返して入り口まで出ようと体を反転させたとき、遊星はここにないものを見た。

密集している木々に埋もれた先に僅か夜のような暗闇にかすんではいるが、たしかにそこにある。
手を広げて道を阻む枝をどかして、遊星はその建物に近付いた。


住宅地の整然と整えられた民家とは雰囲気の違う、老朽化が進む外観はかつて清潔な白いペンキで塗装されていたのだろう。今ではすっかりくすんではげてしまい、長方形を横に倒したような建物は殊更年代が経過しているように見える。
イメージ的には、学校の旧校舎のような印象だった。

昨日ここに来たときには確かに何もなかったのだが、見落としていたのだろうか。人目を避けるように建てられたような建物は一瞬気がつかなくても無理のないように思える。しかしいったい何のために。
廃墟同然の古い建物の敷地に足を踏み入れる。両開きの磨りガラス製のドアには隙間が開いていて鍵はかかっていないようだった。

取っ手に触れて、ゆっくり押し開いてみる。見た目より滑らかに開閉できるところを見ると、ここの入り口は今も現役のようだ。誰かが居る。村にかかわる何かの施設だろうか?


中に靴音を響かせて長い廊下に入ると、またドアが出現した。軋みをあげつつ開くとともに飛び込んできた眩い明るさで一瞬目がくらむ。
数秒かけて慣れてきた目を開き、遊星は驚いた。入り口の暗さと対照的に室内はあたたかい光で満たされている。光源は、広い室内に設置された無数の窓だ。ひとつ残らず開け放たれた窓の先は緑のまぶしい整えられた中庭になっていた。中心だけ切り取られた建物は外からでは横に倒した長方形のように見えたが、内部はロの字になった低い建築物のようだった。入ってくるときに見た暗い木に埋もれていたのは裏口…だろうか?
この施設は一体…。



「……だれ?」

部屋の隅からかけられた声に弾かれるようにして振り返る。息を呑み、体を強張らせる気配。
遊星はゆっくりと、吸い寄せられた先のアメジストを呆然と見ていた。

「きみは……」


中庭から夏の香りを含んだ風が流れ込む。翻るカーテン。身動きができない。遊星は部屋の外から、少年は清潔なベッドの上から。
遊星は、この村に入って初めて村民と出会った。



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