遅い昼食を取り部屋で休憩したあと、夜になるまで時間があったので遊星は民宿を出てこの村を少し散策してみることにした。
目的の時間になるのはまだずっと後だ。
ここにいる目的は星の観測なのだが、この村に滞在する間中昼は旅館に閉じ篭っているのも面白くない。
都会のように空を阻む物がないため部屋からも問題なく観測はできるだろうが、他にいい場所があるなら見ておきたいというのもある。
宿に荷物を置いて外に足を踏み出すと、途端に蝉の声が近くなる。
照り付ける日差しは強いが、標高が高い為か不思議と涼しさが感じられた。
宿の位置からしばらく歩いて民家が並ぶ住宅地まで来てみたが、まるで古都のように一定の間隔を持って均一に並んだ住宅の周囲に人通りは皆無で誰ともすれ違うことがなかった。
暑いせいで皆家の中にいるのだろうか。
もともと人口があまり多くない土地でもあるらしい。
そして何故か、人が多く住む地帯にも関わらず品物屋の類いまで見当たらない。
並ぶ見た目が同じ家のすべてが窓も戸も固く閉じられていて、ある種の異様な空気だ。
今は村人が一斉にどこか別の場所で何かをする時間なのだろうか…?
一瞬、村の住人が普段どう暮らしているのか思考を働かせた。買い物ができる場所くらいは帰ってから民宿の主人に聞いておこう。
この村にはこの村の、生活するためのシステムがあるのだろう。実際、ここにしばらく滞在する予定の遊星にとって生活必需品の調達は大切な問題だ。
いつもこの調子なら民宿以外で食事を取るのは困難だろうか。
次から飲み物くらいは台所を借りて自分で用意するようかもしれない。
短い期間をここでどう生活するか考え、じわりと滲む汗を拭った。
そのまま誰ひとりとしてすれ違うどころか姿も見えないまま、遊星は住宅地を出た。
規則正しく並んだ民家の群れを通り過ぎると、 木々の密度が増える。
住宅地になる場所だけをかつて開いたのか、人が住む地帯以外はそのまま森のようだ。
鬱蒼とした森の中は昼間なのに薄暗く、心なしか気温が低い。
遠くから蝉の声がうっすらと届いているのに、ここには虫の気配がしない。
人気のない民家の群れといい、夏の音がしない森といいまるでここにいる生きているものは自分しかいない錯覚に陥りそうになる。
遊星が滞在する民宿に今朝も主人は居たし、村はきれいに整えられているのでもちろんありえないのだが。
都会の騒がしさに何もかも慣れきっているせいで田舎が一層静かに感じるのだろう。
遊星が暮らす大学の周辺も住みやすく嫌いではないが、このくらいの静けさが落ち着く。
「……?」
視界の隅で何かが見えた気がして遊星は振り返る。いま、そこに白い建物があったと思ったのだが。
見間違いだろうか。見える限り重なり合う木々があるばかりだ。
少し深くまで入り込んでみたが、ここにはこれ以上何もない。
今日のところはこれで戻ることにしよう。
森を出てまた誰ともすれ違うことのない住宅地を歩いていく。
部屋からの眺めは気に入ったが、あの民宿は奥まった所にあるのが難点だ。
この距離を往復するのに徒歩で来たことに少し後悔する。
今日来てみて何もないことが分かったのでもうここまで来ることはないだろうが。
日が傾き出している。
夜が近づく。
強い風が吹いた。
乾いた草木と、遠くの水のにおいがする。
また汗を拭い、旅館の前、遊星が駐車させていたバイクの上で黒々とした大きな揚羽蝶が動かなくなっているのを見た。
夕食も終え、ついさっき入浴を終えて障子を開け放った窓辺に背を向けて寄りかかり、山からの風で体の熱を冷やす。
意図して電気を落とした部屋は山中の暗さもあいまってまだ夕食時と言える時間だというのに真夜中のように暗い。
薄暗い部屋の中の窓から漏れる月明かりだけを頼りに畳の上に広げた天体望遠鏡を組み立てて準備する。
観測の準備をしながらも、つい背後を振り返って夜空に見入ってしまう。
昼間から青空に点々と星が既に見えていたが、夜は別世界のようだった。大学や遊星が住んでいるアパートからの観測できる数とは比べ物にならない。
落ちてくるかのような手が届きそうな、ぐるりと天上を囲む星のパノラマ。
明かりのない地上と空との境目は闇に溶け消えて、一瞬自分がどこに立っているのか見失いそうになる。
この村の夜は星と月だけがあった。
窓辺にセットした観測機を覗き込む。
間際、何か小さい影が眼前の山の中でわずかにゆらめく。
山からの強い風が千切れた綿のように夜空に所々散らばった雲を払い除ける。
遊星は心中で感嘆の声を上げ、眠くなるまでいつまでもレンズを見つめていた。
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