蝉の鳴く声を遠くに聴きながら部室の扉を開ける。
楽譜で散乱した机の上。
きっと部員の誰かがそのままにしていったのだろう。
「…やれやれ」
ひとつため息をついて椅子の上に鞄を置いた。
よくもこれだけ散らかしたものだ。
「仕方ないな…」
後片付けを肩代わりする義理はないけれど、目についたものを放っておくのも気が引ける。
面倒だと感じながらも楽譜に目を通せばそれがオーケストラ用ではないことがわかった。
(この時期にソロ…?)
星奏学院からはソロの出場者はいない。
他の部員も練習するならアンサンブルやオーケストラの譜面のはずだ。
趣味として弾くのだろうか。
首を傾げる大地をよそに、散らかした張本人はあどけない顔で帰ってきた。
「あれ?大地先輩?」
緊張感のない穏やかな声が部室を包む。
「やぁ、ひなちゃん」
手元に重ねられた楽譜を見てかなでは慌てた。
「…あ!」
「?」
「それ、すみません!すぐに片付けますね」
パタパタと足音を立ててすぐさま机の上の紙をまとめ始める。
大地が持っている分と合わせて50曲以上の譜面が散らばっていた。
作曲家順に並べ替えて一つずつ棚にしまう。
「…ねぇ、ひなちゃん」
「はい?」
「どうしてソロの譜面ばかり探してるんだい?」
単純な疑問だ。
「えっと……あの…」
返答はハッキリしない。
「もしかして将来的にはソロを目指してるのかな?」
「いえ、その…秘密です」
ぷい、とそっぽを向かれてしまった。
本当は、何か大地の好きそうな曲を演奏できないかと探していたのだ。
華やかで、愛らしくて、それでいてどこか胸を打たれるような、そんな楽譜がないかと。
数が数だけに見つけることが出来なかったのが残念ではあるが、またの別の機会に探そうと考え直して、首を縦に振った。
大地は結局理由がわからないままかなでの後ろ姿をじっと見つめる。
細い腕で、長い指で丁寧にひとつひとつ片付けていく。
肩の上で髪が揺れる。
上の棚に戻したいのか、一生懸命つま先立ちで背伸びをするかなでに大地は苦笑した。
「手伝うよ」
小柄な相手ではどう踏ん張っても届かない。
後ろからひょい、と楽譜を奪い上げ規定の場所へと戻してみた。
腕の中に収まりそうな距離。
「あ、ありがとう…ございます」
真っ赤なりんごのように可愛らしく頬を染めるのが手に取るようにわかる。
「どういたしまして」
大地はふっと微笑んでかなでの頭に手を添えた。
よしよしと優しく撫でると眉を寄せてこちらを振り返る。
「先輩…!こ、子供扱いしないでください……」
ここ最近、お決まりの台詞だ。
頭を撫でれば必ずこの言葉が大地に返ってくる。
子供扱いしているつもりは全くないのだが、かなでにはそう見えるらしい。
恋人扱いしている、と伝えてもいいのだが下手に警戒されたらたまらない。
可愛いという言葉でさえ、冗談としか思われていないのだ。
大地は頭を抱えた。
(さて、どうしたものか…)
夏休みの部室。
二人きり。
手の届く距離。
抱きしめようと思えば、簡単に抱きしめられる。
少しむくれた頬で見上げられるという動作がどれだけ男の心を揺さぶるか、本人は気付いていないらしい。
「……」
「あの…先輩?」
悪戯心に火が点くまで、あと何分くらい持つだろうか。
白い肌がじわりと熱を持って赤く染まる。
「聞いてますか…?」
夏の日差しを浴びて額に滲んだ汗。
うっすらと背中が透けた白い制服。
不安気に睫毛を震わせる仕草を見たら、もう目を逸らすしかなかった。
「──ごめん」
かなでの肩にポンと手を置いて身体を反対へと向ける。
「子供扱いしたつもりはないんだけど、そう見えるならもう君に触れないようにするよ」
「え…っ?」
これは、自分への警告。
理性というものは、思っていたよりも危ういものらしい。
「どういう…」
困惑するかなでをよそに大地は言葉を続けた。
「だから、ひなちゃん」
一度だけ、振り返る。
「君も、あまり無防備に近づくものではないよ。でないと──、いつ狼をおびき寄せるかわからないからね?」
夏は開放的すぎて、
時に危うさを感じる。
無闇に踏み込めば怪我をするよ。
だから
今はまだ、もう少しだけ
この距離を楽しませて。
はじまった距離
100404
……………………
榊大地に心臓持っていかれました。
続きを書きたい…。