昇降口のそばにそびえ立つクスノキが葉をつけて、蔵書部屋からは木漏れ日が綺麗に見える。少し前まで本が乱雑に積まれて暗かったこの部屋は、差し込んだ光のおかげで随分明るくなったと思う。おそらくそれはごく自然に、人がいることで倉庫から部屋になっただけなんだけれど、私はとても満足していた。
すぐそばで頁の捲る音が聞こえて、それだけは変わらない音だった。
「先生」
この部屋にいるもう一人に声を掛ける。その人はピクリともせずに、今読んでいたらしい頁に栞を挟んだ。顔をあげると前髪が揺れ、冷たい瞳がこちらを捉えると微笑んだ。
「紅茶を淹れるか」
「あ、手伝います」
先生が家から持ってきたらしいティーセットは白くてシンプルなもので、特に高級そうだとも安っぽいとも思わなかった。本が詰まったダンボールの隙間からコンセントを見つけ、電気ケトルのコードをつなぐ。スイッチを入れるとゴポッという音が部屋に響きだした。
いつの間にか始まった、蔵書部屋で紅茶を飲むという日課に私はまだ慣れないでいる。先生はコーヒーより紅茶を好むということは以前尋ねて知ったのだけど、今机の上にあるのは見慣れたメーカーのティーパックだ。先生はさして紅茶に興味があるわけではないらしい。私は先生がなにかに興味があるなら、そのなにかについて知りたい。そしてできるなら先生の話を聞き、その中に潜む先生の人間らしい部分を見てみたいと思っていたのに。
先生にとっての紅茶はなんだろう。考えている内に沸騰するお湯の音が大きくなり、堪えきれなくなったようにカチンとスイッチが上がり、ランプが点灯した。
正式な紅茶の作り方は知らないので、とりあえずお湯を注いで少し待つべきかなと思い、ふと先生の方に向き直る。先生の目は相変わらず活字を追い続けていた。「手伝います」と言ったのは“一緒に”という意味を込めていたのだけど、先生には全く伝わっていないようだ。
「先生、ここに置きますね」
「ああ。ありがとう」
あ、このシチュエーションはなんだか教授と助手みたいではないか、と考えて自然と口角が上がってしまう。それを隠すようにマグカップに口ををつけた。
「座って飲みなさい」
「あ、はい」
いつものダンボールに腰掛けて、紅茶を飲む。顔を上げると、先生は少し斜めに座っていて、私と対峙していた。目が合う。私は凍りついたように動けなくなった。
「学校はどうだ」
その質問はおかしい。先生、ここは学校です。
「……きちんと来ています。授業も真面目に受けてます」
「そうではなく、友人関係はどうだと聞いている」
私は視線に耐えきれなくなって、窓の方に顔を向ける。さっきの高揚した気分が嘘のように冷めていくのを感じながら。
私はこういった質問は受け付けていない。確かに、先生は私の唯一の相談相手だった。先生は先生だから、なんでも聞き流してくれるのをわかってたし、教師らしいこともしてこないから、ちょうどよかったんだ。でも、私が友達と上手くいってないんですなんて言ったら、前みたいに「なるべく友達の近くにいなさい」と言われるに決まってる。
私は少し考えてから言った。
「……クラスの数人から言われました。可哀想、と」
「うん」
「なんかむかついちゃって、でも優しくしてくるから、困ってしまって」
「それは何に困っているんだ?」
先生の声は、面白がっているようには聞こえない。今、先生は、本ではなくマグカップを手にして、活字ではなく私を捉えていた。
「私は可哀想だと言われるのは嫌だけど、優しくされるのは嬉しいし、好きです。だけど、その根本に“ケンカ”した事実があって、それはなかったことにできない。それが困るんです」
「それなら、可哀想なふりをして優しくしてもらったらいいだろう」
私は先生を睨みつけたが、彼はそれがわかっているかのように目を伏せ、紅茶を飲んでいた。
「事実は君たちが忘れない限り消せない」
「じゃあ」
「わたしは可哀想じゃないとでも言えばいい」
これだから、先生とこういう話はしたくないんだと心の中で呟く。
本当はそんな単純な答え、自分で探せてたはずだったのに、私は絶対それを声に出さなかったのだ。誰かに「可哀想」だと言われてむかついて、自分で「可哀想じゃない」と言うのを躊躇う。じゃあ私は「可哀想」と「可哀想じゃない」の中間なのかな。そんな形容詞知らない。わからない。わからないことは先生に訊けばいい。
「……ねえ先生、私、可哀想?」
今度は目を逸らさずに、すました顔で言ってやった。先生の瞳は私の心を見透かしてるかのように、微動だにしない。
「可哀想」
即答ってことは、全然考えずに言ったのか。そういえば、私の名前を言えと頼んだときも、先生は思い出すような仕草がなかった。喜んでいいのか、この人がとても記憶力がいいのか、いまいちわからない。
頬をつたう感覚に気づいて、急いでセーターの袖で拭った。それでも馬鹿みたいに溢れてくる涙に、もうどうしようもなくなって両手で顔を覆った。誰かがその手を掴んで、引き剥がしていく。隠せなくなった右目から、わかりきった誰かの顔が見えた。目が潤んでいるせいか、先生の綺麗な顔立ちは歪み、冷たい瞳はぐらぐらと揺れているように感じた。そこからのびてきたハンカチが、私の涙を吸い取っていく。剥がされた右手がつかまえられ、自分の体温が上がっているのに気づいたとき、私はもうだめだと悟った。
先生が言う「可哀想」は、みんなのとは違う。同じだけど、違う。きっと私は泣きたくて仕方なかったんだ。先生に認めてもらって初めて、私は自分のために泣くことが許されるのだ。
「大丈夫です。自分ので拭きますから」
思ったよりも声ははっきりと出せた。先生の手が離れ、私はポケットから小さなタオルを出して溢れ出る涙を拭う。
今日の先生は優しすぎだ。本当は先生の胸で泣きたい気持ちを、少しの理性で抑える。だって、そんなことをしたら先生を困らせることになるでしょう?
「冷めないうちに紅茶、飲みなさい」
まだぼやけている視界に、先生が紅茶を飲む姿が映る。もちろん私が淹れた紅茶だ。いつもならすぐ本を読む先生が、ひとりの世界に入ってしまう先生が、すぐそこにいて、私は安心してまた泣いた。
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