「待って、よ」

 死ぬことを宣言した男に私がかけられる言葉は、どれも頼りないものばかりだ。まるでドラマのようなシーンに溺れているみたいで、とても必死にはなれなかった。冗談でしょ? そう言おうとしたけど、そのたった一言で彼がいなくなってしまう儚さが、広い海には漂っていた。
 つんとした塩の匂いにはもう慣れた。砂まみれのビニールサンダルを一歩踏み出せば、海が迫ってくる。彼はもう膝の上まで海水に浸かっている。月明かりが、彼の顔の輪郭を際出たさせていた。表情は哀愁に満ちている。

「驚いた。君は僕を止めるんだね」
「当たり前よ。死んだら死ぬんだよ。わかってるの?」
「うん。ぼんやりと想像はしたよ」

 冷たい風が絶え間なく吹いて、私の足はとうとう震えだした。これが寒さのせいなのかは知らない。白くなった顔の男が、淡々と話し始める。

「僕がここで死んだら僕はぐちゃぐちゃの水死体になって発見される。それから、焼かれて灰になって骨をつままれて、お墓に入る。僕は半永久的にその土地に居座るんだろうね。……魂とかそういうのは、よくわからないけど」

 私はかぶりを振った。

「違うよ。ここから君がいなくなることとは別に、君の中から全てが消える。この世界も人もみんな消える。考えることも伝えることもできない。誰とも、繋がらない。そういうことについての恐怖はないの?」

 そして男は、笑いを堪えながら言うのだ。

「こころが軽くなるんだ。明日の不安もなにもかもないまま、眠るような――だから怖くないよ」

 張り付いたTシャツから伸びた手が、私に向けて差し出される。

「一緒にくるかい?」

 このあとのシナリオはだいたい読めた。女が涙を流しながら海の中へ入り、彼を思い切り抱きしめる。ふたりは海の中で美しく涙を流す。そういうかんじでどうかな? 君。

 いつもの癖で妄想を繰り広げながら、私の頭にはもうひとつのシナリオがあった。ハッピーエンドしか求めない君は、きっと私の頬を打つことだろう。
 私は前者のシナリオを演じなければならない。でも、そこにある彼の表情がやけにリアルで、意志が揺らぐ。足が震える。彼と一緒になりたいと、私の全部が叫んでいる。

 足を踏み出し、やっと海の冷たさを知った。塩水がピリピリとしみるのを我慢して、ぎこちなく歩き出す。差し出された手のひらに、手を伸ばす。

「ねえ。僕がこんなことをすると思う?」
「――え?」

 彼は差し出した手を引っ込めて、私の頬を強く打った。しかし、それは空を切っただけだ。私は痛くないはずの頬を押さえながら、涙を流した。彼の皮肉めいた表情は、悪戯な子どもみたいだ。

「ばかだな。僕は君が死ぬための勇気にはならないよ。君は生きなきゃいけないって、ちゃんと教えたでしょう? しっかり最後まで書き上げてくれよ。僕はハッピーエンド以外認めないから」

 彼は頬の傷をぺろりと舐める。しかし、それは舐める仕草にしかならなかった。でもそれだけで私の体は震え上がって、彼を抱きしめてしまおうと両手を伸ばした。
 そこにはなにもない。
 それは彼がすでに――もうずっと前に――この世からいなくなっていることを意味している。

「僕をつくって。うんと幸せなものがいいな。君ならできるだろう?」

 彼の残像は高らかに笑う。それは過去に見たワンシーンと全く同じものだった。
 そうだ、私は書かなくてはいけない。死ぬことも彼を忘れることもできない。想像力はどこまでも私たちに優しいから。彼の不幸を全部摘み取って、始めから書き直してやるんだ。とても幸せな人生を。

 溢れた涙がとうとう滴り落ちた。

「ねえ。私と出会って幸せだったの?」

 答えはないのに、頭の中の誰かが勝手に、私を登場人物の中に入れている。私たちが一緒になるのは、お話のなか。空しさが漂う海の中で、私は二次元の彼と初めましてを交わす。ちゃんと幸せにするからね、君。


100422

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