「その後あなたは屋上に行った。私の記憶はここまでです」

 うさぎの説明を聞き流して、僕は思い浮かべていた。あの空気、酷く気持ち悪かったことを覚えている。愛しかった彼女の顔は恐怖さえ感じ、エレベーターを待つ時間は、僕達の思い出が永遠と繰り返されていた。
 そう、僕はあの後どうしたんだろう。脳を探っても、記憶がどこにもない。

 僕は、やっと階段の終わりを見つけた。扉から光が漏れて眩しい。ゆっくりと近付いて、事務的な銀色のドアノブを掴む。なぜか、ほんのりと暖かい気がした。

「僕は記憶力がいいから。だから僕は、僕だけは覚えてるって言おうとしたんだ」

 うさぎは追い付いて、後ろ足で立って僕を見上げた。自分と違う生き物とは思えなかった。うさぎは、やっぱり僕なのかもしれない。ああ、また妄想してるじゃないかと自嘲気味に笑って、僕は続けた。

「だけど、空しくなった。僕だけが覚えてるというのは、無意味だと思った」
「無意味?」
「……うん。彼女に僕を忘れて欲しくなかったんだ」

 傲慢な話さ。また笑って重い扉を開く。じわりじわりと光が広がって、前が見えないのに僕は進む。包むように白は眩しくて、僕もうさぎも溶けてしまうんじゃないかと感じた。

「……仕方のないことです」

 足元がくすぐったい。うさぎはまた引っ付いているようで、暖かい。
 瞬いて、次の景色は水色だった。その中をたくさんの写真が落ちていった。僕はなぜか、その一枚一枚を見逃すまいと目を凝らして、脳で再現させている。何百枚あるのだろう。ひらひらと降ってくる写真は色褪せているのも混じっていて、それは僕には見えなくて、どうしようもなくなる。そのうち目が渇いてきて、視界が濡れた。

 僕は落ちていく。写真の向こう側は、いつもの街が佇んでいた。公園があって、商店街があって、踏切があって、遠くには知らない森があった。そこから想像するものはなかった。僕の中には、何も留められなくなっていた。
 うさぎは僕の少し下で落ちている。普通の大きさに戻ったうさぎは、動物みたいだった。白い毛から微かに見えた目に、不安はないようだ。僕はホッとして、涙がまた零れて、ゆっくりと赤い目に吸い込まれる。
 きっと、飛び込んだと言うのが正しい。うさぎは何も言わなかった。もう中身は動いてないんだ。

「君が羨ましいな」

 ここから見える風景が、いつかゴミになること。きっとそれが空しいんだろ。今ならうさぎに教えてやれたのに、まもなく地上に到着するらしい。僕は目を閉じた。



 街で一番大きな病院の、白い病室の中で、青年は目を覚ます。肢体のあちこちは包帯に巻かれて、もぞもぞと体を起こす。ずっと側についていた女性、きっと青年と愛し合っていた彼女は、驚いて名前を呼んだ。

「……誰?」

 彼女の顔を見て、うさぎの目をした青年は微笑んだ。
 白いうさぎは、誰の目にも付かないまま、森へと帰っていった。

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