「きっと、もうすぐだ。行こう」

 まるでファンタジーの中の旅人になったようで高揚した僕は、振り向かずに足を踏み入れた。うさぎはぴょんぴょんと上ってくる。まだ何か考えているようで、返事はない。
 階段は続いているようだが、暗くてどこまで伸びているかわからない。純白で埃一つ落ちていない螺旋階段は、綺麗すぎて不気味だ。天まで続いているのかもしれない。それでも進むしかないので、僕はうさぎが追い付く一定のペースで上っていった。

「……聞きたいことがあります」

 ぐるぐると、もう何周したかわからない高さで、うさぎの声が響いた。下から上へ抜けるように、モザイク声は少し震えていた。僕はゆっくりと振り向き、何だと問う。

「今朝は何を食べましたか」
「え、コンビニのパンとコーヒーだけど」
「サンドイッチ、ですよね。卵の」
「……どうして」

 胸がざわついて、弱々しい声が響く。一方うさぎの目は、困惑してるように見えた。

「私の中に、少しだけ記憶が入っていたみたいで……私はそれを見て、思ったんです。私はあなたの一部ではないか、と」
「何だって?」
「私の心はあなたの一部ではないでしょうか。この考えが正しければ」

 うさぎは、またあの目をして笑った。

「……寂しいと思っているのはあなたです」

 バランスを崩しそうになって、慌てて手すりを掴んだ。うさぎは僕を見つめて、返事を待っているようだ。僕は向き直って、階段を上る。
 正直、がっかりだった。うさぎの意見はいつも正当性があったはずなのに、なぜ全てを覆すようなことを言い出すんだ。それに、それよりも僕は、寂しいと言われたのが苛ついた。その響きに、吐き気を感じるのだ。

「あなたは、会社へ出勤した後のことを覚えていますか」

 また後ろから質問が飛んでくる。僕の足はさっきよりも速く、うさぎとの距離は少し空いてしまっている。

「覚えてない」
「あなたは、女の人と会ったんです」
「たぶん僕の彼女だ」
「はい、そうみたいでした」

 もう僕は、思い出しかけていた。昔から記憶力には自信があるんだ。写真を並べるように、もしかしたら走馬灯のように、かもしれない。ああやって速読するように脳に入り込んでくる。僕はそれを拒絶して、なぜ拒絶するのかもわかっていた。思い出してしまった。



 同僚でもある彼女は、昼休みに僕を呼び出した。

『別れませんか』

 そんな重要なことを、「お茶しませんか」みたいに言われた僕は呆然としてしまう。次の言葉が出てこない。休憩コーナーから離れた隅の角。向こうにあるエレベーターが鏡になって、僕達を映していた。やけに冷たく見えた。

『怒らないで、次の人を探して。大丈夫。きっと、いつか私のことなんて忘れてしまうから』
『……君も、僕を忘れるのか?』

 彼女しか聞こえないくらいの声量だった。そんな僕を可哀想に思ったのかもしれない。そういう目で微笑んだ。長い髪が揺れた。

『そういうものだもの。仕方ないわ』

 引き止めることはできたはずなのに、僕がそうしなかったのは、もう遅いと彼女が示していたからだ。手を振って笑って、同僚に戻った彼女は、休憩コーナーに入っていく。僕は煙を吸いたくなって、休憩コーナーにいる彼女に気を遣って、エレベーターに乗って上がっていった。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -