「知ってる? 人の目って二つあるから、物が立体的に見えるんだって」

 目の前の女の子がすました顔で告げた。肩まで伸びた髪を黒いゴムでぴっちりふたつに結んだ彼女、つくるシルエットは優等生のそれだった。
 どこだろう、ここは。花の香りと誰かの声が、頭の中に残っていたけれど、僕は彼女をただ見ることに専念していた。懐かしい気持ちが溢れてくる。僕が目を凝らすほど、彼女は鮮明になっていって、笑った。口を開けて、白い歯を見せた。

「サケの目は綺麗だね。黒くて、何も見えない」

 近づいてきた顔に、はっと息を呑む。触れられるくらいの距離にいるのに、僕はそれをしなかった。ただずっと見て、見つめて、彼女の顔を忘れないように、目元や輪郭を、観察していた。

 彼女も僕のことを「サケ」と呼ぶ。名字が同じだからって、サカイが付けたあだ名。彼女は酒飲みみたいだって笑っていたっけ。
 僕は、彼女の笑っている顔がとても好きだった。普段から真面目な彼女が、口を開けて大声で笑うのが、下品でおかしくて男の子みたいだった。彼女は他の女の子と違って、男の子に文句を付けたりできる人だったから、僕たちはすぐにケンカをした。彼女は絶対泣かなかった。

「知ってる? 私たちは目を二つ持ってるけど、結局薄っぺらいことしか見てないんだよ」

 なくなりそうだった彼女の目がゆっくりと開く。肌が白い。唇が赤い。

「私が笑ったら、みんな私が嬉しいって思ってるなって感じるの。笑えば、みんな安心するのだよ」

 彼女は、僕たちが住む街では有名なお嬢様だった。男勝りな姿からは想像がつかないけれど、彼女はしっかりした長女でもあった。昔、大きな庭園がある家に、お邪魔させてもらったことがある。のびのびとした縁側に座って、麦茶をもらっただけで、アパート住まいの僕としては、幸せな気分になったのだ。
 だから、僕は彼女のことを太陽みたいな人間だと決めつけていた。それは、クラスのみんなも同じだったはずだ。

「単純だよね。でも、そこがいいよね」

 彼女は、もう一度笑った。それだけで、僕は胸を掴まれたみたいにギュッとなってしまって、なにも言えなくなった。まつげが、長い。ああ、僕はなにを見ているんだろう。見ても見ても満たされないのは、彼女のことをなにも知らないからだ。
 僕とサカイと彼女はいつも一緒で仲良し。お互いなんでも知ってるなんて、僕の妄想にすぎなかった。
 彼女は学年が上がってから、学校に来なくなった。理由は先生も彼女のお母さんも教えてくれなくて、僕たちが家に通っても会えることはなかった。彼女が不登校なんて、ある訳ない。あんなに学校が好きだったのにどうしたんだろうって、考えてもなにもわからなかった。ときどき僕たちは手紙を書いて、お母さんに渡したりしたけれど、返事が来ることはなかった。

 結局それから一度も会えずに、彼女は死んでしまった。通夜にだけ呼ばれて、訳がわからないままの僕は、ただ放心していた。

「……病気だなんて、一度も聞いてない」
「なんのこと? 私はいつだって、サケの近くにいるでしょ」

 彼女は、両手で僕の頬を包む。心臓の音が聞こえそうなくらい近いのに、僕はなにも感じ取ることができない。彼女の目に吸い込まれて、心臓が速さを増すだけ。

「サケ、笑ってよ。笑ってくれれば、私は幸せになれるんだから」
「……君は、なにを考えてるの」
「そんなの、誰にも教えてあげないよ」

 唇に人差し指を添えて、首を傾けて笑う。いたずらな表情が可愛くて、いらいらした。嬉しそうにしか見えない。彼女の目も黒く深くて、覗けそうにない。
 故に、彼女は美しいのだ。



「――サケ」

 名前を呼ばれて、僕は彼女の姿を焼き付けてから目を閉じた。今でも僕の脳には、彼女の最高の笑顔が記憶されている。

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