風が強く吹いた。灰色のツヤツヤのビルが遠くで並び、空はぼんやりした水色で、雲がたくさん浮かんでいた。動いているものもたくさん。騒音も光も、まだ慣れない。

「疲れたのか?」

 クウは私の顔を覗き込んできた。少し伸びた漆黒の髪が揺れる。

「違うよ。思ったより人がいっぱいいるんだなって。あれは何?」

 私は空の上の鳥を指差した。ゆっくりと白い跡を残して進んでいた。

「飛行機。人の乗り物だよ」
「すごいなあ。クウは物知りだね」
「ああ。ずっと見てきたから」

 私は何も知らない。自分が誰なのか、なぜここにいて立っているのか。だけどずっと願っていたような気がする。幸せになりたい、と。



 感情など許されない、その世界でクウは見つけてくれた。クウは私を食べたりしない。私よりずっと頭が良くて、歌いながら言葉を教えてくれる。私はそれをただ聞いていた。音の出し方は知らなかったから。
 ある夜、クウは水上ではなく少し高い波打ち際の岩に腰掛けた。それはもうクウかわからなくて、でも黒い羽根と声でわかった。

「もう飛べなくなった。君も来る?」
「……え?」

 声が出たことに驚いた瞬間、息が苦しくなる。慌てて岩に張りついて空気を吸う。体が重たくなったような感覚と、くっきりとした視界。私は垂直で、あろうことか浅瀬に足を着いていた。

「あ、あ」
「……わからない?」
「わからない! そう、わからない!」

 産まれた時のような叫びたい感覚。体が熱をもっているのを感じた。さっきまでいた海が怖くなり、寒気がする。

「俺もわからない」

 立ち上がってクウは微笑んだ。だけど、と言って自分の羽根を引き剥がし始める。

「これを犠牲にたくさんのものを手に入れた」

 舞い上がる黒い羽根が不気味に散って、私は恐れながらも魅了されてしまった。手の動かし方も知らないのに、差し出された腕に伸ばして、陸にあがる。

「行こうか、人魚姫」



 ヒトは希望に溢れていると思っていたが、この世界は怖い。感情があるからこそ、残酷で辛い。どうせなら、クウに食べられてしまいたかった。


「……クウ、人魚姫って何?」

 じっと飛行機を眺めていたクウは、振り返って微笑む。

「人間の王子に恋した人魚姫が薬を飲んで人間になるんだ」

 しかし、近づいたのに足が痛くて声も出ない。人魚姫は気持ちを伝えられぬまま、王子は結婚してしまう。渡された短刀で王子を殺せば、泡にならずに済むと言われるが、人魚姫は首を振って泡になった。

「……君には難しいか」
「うん、わからない」

 どうしてヒトになって、泡になってしまったの。どうして殺さないの。私にはまだわからない。

「クウは、ヒトになって何をしたいの?」
「飛行機に乗る。もっと高く飛ぶのさ。まだ雲さえ越えたこともないから」

 空が瞳に反射する。見つけた。希望に溢れたそれに、吸い込まれそうになる。時間が止まったみたいだ。これが幸せならば、幸せすぎて怖い。

「……私、泡になるのかな」

 足元は慣れないせいか少し痛む。膝には転んだ赤い傷がいくつもあった。

「じゃあ俺は、空気になるのか」

 クウは空を仰いだまま悟るように呟いた。私は振り返って、Tシャツを引っ張る。空では飛行機雲がだんだんと消えかけていた。背中にはもう黒い羽根などないというのに。

「だめ。クウは消えちゃだめ!」
「……君は消えてもいいの?」

 どうして私はヒトになったのだろう。

「いい」
「……いいわけない」

 振り向いて私の髪をすくって、口づけた。心臓が鳴る。視線が突き刺さって離れない。鋭い漆黒の目。

「一緒に行くんだろう?」

 あなたを愛したいから、私はヒトになったの。今なら人魚姫の気持ちだってわかるかもしれない。

「うん……っ」

 だけど、悲劇にはさせないよ。

080704

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