「あら。まあちゃんもお手手、つなごうね」

 三つ編みお下げで、いつも優しい金子先生が、笑顔でそれを促した。今日は体育館に行くんだって。廊下に並んだ2列は、自由時間を前にザワザワしていた。前の子なんて、楽しそうに腕をぶらんぶらんと振っている。別に先生となら、いいんだ。

「……私いやだよ」

 私は、先生を必死な目で見つめた。こんなに近いのも嫌なのに、触れるなんてとんでもない。先生は困った顔をして、仕方ないな、と言って許してくれた。今になって考えると、きっとマセた子だと思われたに違いない。だけどそれは、外の世界だからで。



 吐き気がする。この熱気と二酸化炭素、たくさん混じった人の匂いが、呼吸を遮る。いつも乗る車両のはずなのに混んでいるのは、奴らのせいだ。汚らしいスポーツバックを地べたに放って、通路を塞ぐ男子学生。遠足に行くらしい中学生の集まり。いつもの倍以上の密度と騒音がする。

 入り口の隅で小さくなっていた私だが、やっぱり中学生がなだれてくる。降りるつもりもない駅で、ラッシュに押され、転ぶようにホームに降り立った。戻る気力は起きない。そのままヨロヨロとホームの端まで歩いて、うずくまる。

「さいあく……っ」

 隅に唾を吐いた。動悸が止まらない。たたでさえ、夏は弱いのに、触れただけでどうにかなりそうだ。自意識過剰なのかもしれないけど、だけどそうでもしなければ――。

「大丈夫ですか」

 誰かが近づいてきて、私の背中をさすった。少しだけ振り返ると、カーキ色のキャップを被った白い肌の人。目元は見えないけど綺麗な顔立ちだった。
 何本か電車が通過していった。その間、私はずっとその状態で、嗚咽もだんだん収まってきた。彼女の手は安心させる。そろそろ、と思い私はもう一度振り返ろうとした。

「もう平気で……」

 ボーイッシュだと思った服装は普通すぎて、ショートカットだと思った髪は逆に長く見えた。それが立つと、胸は平らで、背が高い。唯一なのは丸い目だけだ。
 背中が震えた。口をあんぐりと開けたまま、後退りする。彼はそれを呆れたように見て、言った。

「大丈夫。まあちゃんは穢さないよ」
「…………」

 女顔の彼は、不思議と父には重ならない。爽やかは言い過ぎだが、暑苦しさや不潔さはない。しゃがんで、距離があるまま口を開いた。3メートルはある。

「覚えてるかな。幼稚園ときにずっと隣歩いてた」

 こくんと頷くが、頭に浮かぶのは水色のスモッグから出た小さな手だけだった。結局3年間繋がなかったけれど。私が言うのもおかしいが、惨めな気持ちになったことだろうに。

「嫌われてるだけかと思ったら、女子高行くって聞いて」

 また電車が通過した。騒音が彼の声をかき消し、去ってからまた再開した。

「お父さんのことも知ったから」

 なんで、とは言わなかった。噂が立ってもおかしくないか。私が成長していくと共に、過激になっていった。

「……もう離婚したよ」
「まだ直ってないんだね」
「直らないよ」

 私の中ではもう、あれが「怖い」と刷り込まれている気がする。別の性というだけで父に重なり、触られるのは勿論、半径3メートルに入れたくない。自分を守るように避け続けてきた。
 これからどうするの、なんて言われたくもない。だってどうしようもないんだ。

「……直らない」

 私は俯いた。異性と関わりなく生きていくことはできない。やっぱり死ぬしかないんだろうか。

「直したいなら、掴んで」

 顔をあげると、すぐそばに彼の手があった。綺麗で華奢な指がやはり女の子みたい。触れた瞬間に手を奪われて、無理矢理立たせられた。
 繋がれた手は、嫌にはならない。

「利用していいですか」

 彼の笑った顔は、美人過ぎて笑いそうになった。もしかしたら、気にしているのかもしれないな、なんて。

「……やっと繋げた」

 どこに行くのだろうと私が考える中、彼が溜め息混じりに、なにか言うのが聞こえた。

080810

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