太陽が赤く染まったのに気づいて、大きなヘッドホンを外した。のそのそと起き上がって、カラスの行く先を目で追う。どこか遠いところへ行ってしまいたいと思った。私は、自由ではないんだろうか。
 生活には音が溢れていた。テレビの雑音、米軍の飛行機、近所にたまる中学生のはしゃぎ声。もちろん、川の流れや虫の声だって感じることもある。――ぎゃあぎゃあぎゃあ。この音は、隣の家のものだ。扉が勢いよく閉められる音がして、男の子は絶叫した。

「あああー!」

 平凡な日常に、鋭く刺さる。赤ちゃんみたいに可愛い泣き声じゃない。私は耳を塞ぎたくなった。隣の家の子は、少し頭がおかしいのだと、近所のおばさん達が噂してた。
 閉め出された男の子が立ち尽くしているのを私は窓から見下ろしていた。質素な服をまとった少年は、何度も泣き叫んでいる。母親は出てきそうもない。うるさいから、早く入れてあげてよ。
 そうしてまた、ヘッドホンをつける。こんな生活から、少年の泣き声から離れるためだ。窓に目をやると、私は少年と目が合ってしまった。涙を止めて、私を見上げる。強い視線は、私に助けてと言ってるんだろうか。私は、やっとのことで目を逸らし、階段を下りた。

「となりの、おねえちゃん?」
「そう」
「ぼくを入れてください」
「だめ。どこか……。公園に行こうか」

 私は、少年の手を握った。それに反応した少年は、あはっと笑ってみせた。その目は赤く腫れていた。コンクリートに這いつくばうように、ドシドシと大股で私をリードしていく。頭や手や足、すべてのものが小さくて、突然怖くなった。

「そのくろいのはなんですか」
「ああ、これ?」

 私の首に掛かったままのヘッドホンを指差す。付けっぱなしのそれは、シャカシャカと嫌な音だけ立てている。

「自由になりたいとき、つけるの」
「じゆう?」
「そうだよ」
「ぼくは、じゆうになれますか?」

 好奇の目はキラキラと輝くが、傷だらけの顔にはただ痛々しくみえただけだった。太陽が沈んだら、きっとキラキラは見えなくなる。

「つけてみる?」

 私は、少年の頭にそっとヘッドホンをつけてやった。ずり落ちそうなヘッドホンを必死に抑えながらも、片手は少年の手を握りしめたままだった。驚いた表情から、少しずつ緩んでいく。自然な笑顔が、愛しかった。
 未知の世界は、少年の目にどう映るのだろう。私には音楽は聴こえないけれど、いつもの生活の音ばかり聞こえるけれど、そこには柔和が時間が流れていた。公園に乗り捨てられた自転車を見つけて、今ならどこかに行けるかもしれないと思った。そう、この少年を自由にしてあげなくちゃ。

「カズキ!」

 私の心臓がびくりと跳ねた。母親の掠れたような声が、遠くから聞こえている。私は少年をかくまうように抱きしめ、ヘッドホンを押さえつけた。

「カズキ!」

 少年の目は不思議そうに私を捉えている。大きな目から、かすかに希望が見える。それは、私の勝手な思い込みなのかもしれないけど、でも本当に綺麗なのだ。世界でいちばん綺麗なのだ。

「カズキ!」
「…………ママ」

 聞こえないはずの声が、少年には聞こえる。瞳は揺れて、私が包み込んだ手から抜け出す。ヘッドホンを押さえつけたままの私を見つめて、唇だけで伝えた。

(ママがよんでる)

 私は呆然として、力が抜けてしまった。少年はその小さな手を、私の手に重ね、ヘッドホンをずらした。少年は圧迫感から解放されて安心したのか、へらっと笑っている。私には、それが教科書に載っている発展途上国の子供のように見えた。

「おねえちゃん。ぼく、大人になったらこれをかいます」

 そう言って、ヘッドホンを私に返した。美しかった音楽は、今はシャカシャカという生活の音を出している。少年はぺこりとお辞儀をしたあと、大股で公園を飛び出していった。私はただ、転ばないだろうかと心配した心で少年を見送った。言葉はなにも出てこなかった。



 家に帰ると、ふわりと夕食の香りがしている。テレビの雑音や電子レンジの回る音の中で、ふと私は不自由を感じる。

「おかえり」
「……ただいま」

 無機質な生活のやさしい不自由の中で、私は生きている。そして時々、少年のことを想う。彼の未来がどうかやさしいものでありますようにと。

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