「先生、こんにちは」
先生の椅子までの1メートルの幅、それを作っている左右の蔵書たちは、毎日少しだけ上下している。今日は何やら難しそうなビジネス本を読んでいる。そういえば、4時間目に会ったばかりだ。
「……また泣いてる」
顔を上げると、目が合う。来てからすぐ話しかけられることなんて、滅多にない。文章のキリがいいところまで、いつも無視されるのに。今日は違う?
先生は立ち上がって、こちらまで歩いてきて、そのまま私の涙に触れた。溜まった水が、その手によって溢れた。
どぎまぎしながら見上げるが、表情は無に近い。変わりない、冷たそうな頬と深く黒い瞳が近くにあった。触れた部分から熱が生まれて、目を逸らす。
「先生に相談したところで、変わらないです。だって“ケンカ”は嫌いでしょう?」
「面倒なだけだ」
「少しは否定して下さい」
セーターの袖でゴシゴシと目元をこすった。先生は少し顔を歪めて、持ってきた本を閉じたまま何か考えている。新書を持つとサラリーマンみたいだ。
「……謝られたんだろう」
「はい……それで、仲良くしたいって。意味わかんないです、許せる訳ない。“ケンカ”の理由すら、わからないのに」
「……理由、ね。じゃあなぜ君は泣いたんだ?」
「それは、」
なかったことにされて悔しくて、謝られても満たされなくて、人の優しさも拒絶して傷付けて、自分が嫌いで。それでも、あの言葉は死ぬほど嬉しかったんだ。縋りたくて仕方ない。だけどそれを、猜疑心が止める。
「人の心なんて、わからないだろう。彼は変わっただけだ」
先生は、こんなこと言う人だっただろうか。
「……許せる日は来ますか」
「来なかったら、君はクラスの皆とは一生友達になれない」
ふわり、と暖かいものが髪を撫でる。それは、昨日見た夢に似ていて、正夢だと気付いた。
これは本当に先生なんだろうか。さっきから、言ってることがらしくないのだ。友達とか、変わるとか、人の心なんて。
ゆっくりと顔を上げたら、何食わぬ表情で本を読んでいる。冷たい瞳は活字を追って、深いところに潜り始めた。なんだかそれが面白くて、先生が言ったことが少しわかったような気がした。だから、「先生は変わった」なんて聞けなかった。
確か、彼はゆっくりでいいって言っていた。私と先生の拒絶反応が治る日は少なからず来る。それは、私や先生が本を嫌いにならないことぐらい絶対的だと思う。
窓を開けようと外を見ると、既にほんの少しだけ開いている。びゅうと風が鳴いて、生暖かい空気に刺さるように見えた。窓は開けたまま、痛々しいほど冷たい冬の空気を吸い込んだ。
「……春が来ますね」
振り向いた先の横顔は、少し笑っているみたいで。どうしてか不安になる自分に苦笑した。
090208