「なん、で……」

 薄暗い1階の廊下に、私の掠れた弱々しい声が響いた。こんなにも女であると言わんばかりに。くしゃくしゃのスカートから太ももが覗いていて、直したいけど手が動かない。ひんやりしたタイルは、私を冷静にはしてくれない、鼓動の音がまた増していく。やばい、どうしよう。

「うるさい」

 掴まれた手首がまた強くなって、彼は更に近付いてきた。放課後の学校は風の音すらしない。誰もいないみたい。男と壁に挟まれて、もう逃げられないと悟った私は、泣きそうになって顔を背けた。

 彼の顔はここ最近で一番見たくなかった。クラスの中心で明るくて人気者なんてのは嘘だ。甘いマスクで女子にキャーキャー言われて、頭良くて、同性にも睨まれない。だけど、本当の姿は悪魔みたいだった。
 1ヶ月ほど前から、たぶん何か始まっていた。私は知らない間に、罪を犯していたらしい。それに気付いたのは上履きがなくなったときだ。友達に見放されたと気付いたのは、休み時間。彼の声によってクラス単位で動いてると気付いたのは、大掃除のときだった。
 最近になってパタリと止んだけれど、そのときは死にたくなるほど長い時間だった。なのに、またこんな近くに彼の顔があって、私はおかしくなりそうだ。

「あんな、に嫌い、って、私、また何かした……?」

 たぶん、これは次の犯行予告なんだ。私を精神的に殺そうとしているんだ。だって、ほら、口元が緩んでる。

「そんなに俺のことが嫌い?」

 耳元で悪魔が囁く。灰色の空から降る微かな光は、彼によって遮断された。掴んでいた手を離して、私を強く抱き締めた。

「……い、やっ」

 重なる寸前で、彼が何をしようとしてるのか理解して、我に返る。とっさに出てきたのは頭突き。目からはボロボロと涙が落ちてきた。なにこれ、唯一の女の武器ですか。

「……ごめん」
「怖い、嫌だ、大嫌い、来ないで……」
「許して、ほしい」
「許さない。信じられない」

 目の前の悪魔が何を言ってるのかわからない。だけど、一瞬でも心を許したらまた嫌なことされそうで、慌てて膝を立てて逃げ出そうとした。きっと今は優しい仮面を被って、後になって怖い目に遭わせるんだ。そうに違いない。だって、つい一週間前に彼は、私をいたぶって苦しめた張本人なんだから。

「信じてくれ」
「や、だ……先生! 先生! 先生!」

 とんとんと統一された足音に気付いて、私は階段の方へ駆けていく。今日も黒いスーツを着た先生は目を丸くして、脇に挟んでいた文庫本を落とした。私は構わずに抱き付いた。

「何を、やってるんですか。こんな暗い所で、恋愛ごっこ?」

 相変わらず落ち着いた声が響く。心地良い、もっと私を安心させて、そうだ、私図書室に行きたいな。

「先生、先生、先生……」
「どうしたものか。この子はいいから、君は帰りなさい」
「……俺が送って、」
「泣かせたのは君だろう?」

 全身の力が抜けていく。もう大丈夫、彼の足音が遠ざかっていく。涙がスーツに染み付いてしまいそうだけど、先生はきっと許してくれる。私がずっと離さなくても、突き放したりしない。だからといって手を添えてはくれないけど。
 今日も閉じこもっていたらしい、古びた本の匂いがつんとした。

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