「夢の必要性について教えて下さい」

 活字に目を落としたまま、その疑問を声に出してみる。資格や仕事名がずらりと並んだお堅い本は、今や児童書コーナーにも置かれているらしい。薄っぺらく印刷されただけの文字が、私に訴えかけてくる。感じるのは意味のない焦りか。

「……それは必要なことが前提なのか」

 頬杖を付いて、視線はまた次の頁へ向かう。目元に重く被さった前髪がわずかに揺れた。
 先生は本を読む。それだけであって、批評もしなければ感想も「面白かった」か「面白くなかった」しか言わない。大量の本によって培われたものは、何もないのかもしれなかった。

「人生の大半で縛られるのが仕事だから、なりたいものになれたら幸せですよね」
「女だったら、そんなこと考えなくていいだろう」
「男尊女卑ですか」
「君は結婚しないつもりかい?」
「そうじゃないですけど」

 将来の夢は、確かに「お嫁さん」でいい。だけど、その日が来るまで何をしていろっていうんだろう。結婚は確かに幸せに違いないし、家庭とか子供とか。平安な日々は、今一番欲しいものでもあった。

「先生は、夢を持っていたの?」
「さあ」
「じゃあ、教師になって良かった?」

 はらり。捲るつもりの指が止まって、頁が戻った。きっと、顔をしかめているんだ。頬杖した左手と前髪で隠されて見えないけど。

「どうだか」

 私が本当に知りたいことを、教えてはくれない。いつも上手にかわして、自分の話をそらしている。それが妙に人間らしくて、私は気になって、先生は先生でないことに気付くのだ。職業だ、ただ、いるだけだ。
 それは先生にとっても、考えてほしくないことなのかもしれない。だけど、前よりいっそう、大きくなってしまっている。気づかぬ内に、私の生活の中に擦り込まれていってるの。まるで、インクの中に潜るように。

「紅茶は飲むかい」
「えっ、はい」

 手を止めて、ボロボロの椅子から立ち上がった。どうしたんだろう。そんなに、その啓発本がつまらなかったのか、紅茶が飲みたいだけなのか。いつの間にか設置された窓際のポットやティーカップに、不思議な感覚を覚えた。後ろ姿から紅茶の香りが広がって、なんだか歓迎されている気分。私の頭の中では、必死に間違い探しして、それを受け入れる態勢を整えている。

「夢がないと嫌なのか」
「嫌、ではないですよ。ただ、つまらない人間のようで、周りは頑張っていて、取り残されたようで」
「うん」
「それに……夢ってなんだかよくないですか」

 先生は手を口元に添えて、くすりと微笑んだ。

「適当な理由だな」

 やっぱりどこかおかしいと思ったが、矛盾はしていない。彼は本物。頭の片隅にある可能性は、ゆっくりと広がって広がって。理由のわからない焦りが、襲ってくる。
 本棚の手前のスペースに置かれた白いマグカップから、ぬるくて甘いような香り。顔が火照りそうで、手の甲を当てた。

「僕が教師という職業を選んだのは、特に理由もなく、でも一番それが想像できたんだ」

 私は、少年の頃の先生をイメージできなかった。先生には、子供らしさがない。先生は先生。だけど、ちゃんと暮らしている。
 その先が見えないの。私は、どこにいけばいいんだろう。先生。

「後悔してない?」
「不思議としないさ」

 吐いた息が紅茶の湯気と混ざる。蒸気が気管に侵入して、上品な香りが入ってくる。酔いそうになる。この部屋にずっといたくなる。私がイメージするのは、一つしかないとわかっていた。

「じゃあ、先生は幸せだね」
「ああ」

 そう言ってまた、本を開いて読み始めて、私も視線を落とす。違う空間にいるから、いくら近付いても意味がないと思っていた人。私がイメージするなら、いくらでも行けるんでしょう。叶わなくてもいいの、ずっと見ていたいの。私はもう、夢を持っている。それしかない。
 明日もきっと来ます。卒業するまでに、知りたいことたくさん教えてもらいます。私は先生の本になりたい。

 視界の隅に映った、もう一つのマグカップのことは、誰も触れなかった。いつか、あの男はここに来るんだろうか。今の先生は、きっと教師に向いてると思った。

090221

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