はっきり言って、彼は意気地なしだ。今の関係を壊したくなくて、その場所から一歩も動こうとしない。彼女はどんどんと離れていっているというのに、それにも気付いているはずなのに、どうして。その答えは、彼が優しいから。私だけが知っている事実。
そして私は、一体何なのだろう。
「やっぱりここだ」
非常階段の扉を押すと、黒い額の中の青空にシルエットが浮かぶ。この薄暗い踊場が、私たちのサボリ場所だ。
「いないと思ったら……なるほどね。今日は変則授業だから、1組の体育は4時限目か」
フンフン、と擬音を交えて私はそこに体育座りした。持ってきた紙袋は膝の上へ。
「そういう頭、テストに使えよ赤点」
振り返って、見せた顔は少し赤い。柵の下から聞こえる可愛いはしゃぎ声に、頭がガンガンする。高校生の理性なんて、そこら辺にいるオッサンと変わりないのだ。私は、眉間を抑えながら微笑んだ。
「そんな天才融さんに、追試勉強の先生になっていただきたいのですけど」
「嫌ですね。ぼーっとして話聞かないから」
ああ、それは緊張してたからなんだけどな。ちょっと幸せを思い出して、うなだれる。ズキズキと痛む頭に、考えが浮かんだ。
「じゃあ、1組の女子に覗き魔がいることバラしてきます?」
営業スマイルを見せると、彼は諦めたようにまた向き直して、溜め息をついた。我ながら狡い女。
「このままでいいなら」
「え?」
「なんかわかんないことあったら言って。口で答えるから」
「……わかった……」
それが当たり前のように、ふわりと切り捨てられた。勉強も確かにそうだが、本来の目的は、こっちを向かせるためだったから、失敗だった。やっぱり、どうしても勝てない。
私はしばらく無口になって、数学のプリントをやり始める。湿っぽい日陰に会話はなく、彼の世界からはまるで離れている。全身に焼き付けるように、彼はそのまま動かない。私のいる意味は微塵もないのだ。必要なのは彼女だけ。
「こっち、向いてよ変態」
「何?」
聞こえていたらしく、また不機嫌な顔を見せた。私は我に返って、紙袋の底からクラッカーを出して、引いた。はじけて、飛び出した飾りに合わせて「おめでとう」と言おうとしたのに、彼は顔を青くしてそれを浴びた。
「お前何やって……そんなことしたら、やべ、目合った!」
彼は慌てて校庭に落ちそうだったリボンをキャッチし、非常階段を駆け下りていく。何も言えないまま、平和な4時限目は唐突に終了する。
「そして置いてかれんのか……はあ」
落ちた飾りを丁寧に拾って、防火扉の陰に隠れた。駆け上がってきた体育教官は、疑いもなく去っていく。私が見つかったって見つからなくたって、彼には関係のないことだ。私が割って入ってどうにかになることじゃない。
年月って重い。覆せない繋がりが、彼の気持ちが伝わってきて、どうにかなりそう。
「あの……?」
扉が揺れて、その声に体が震えた。見上げると、張本人が不思議そうな顔して立っている。頭が鳴ってて気づかなかったようだ。
「ここに融がいた気がしたんだけど……」
「さあ?」
「でもさっき、」
「私はずっとここで寝てたので」
「……そうですか。邪魔してごめんなさい」
ジャージを着た小柄な同級生は、頭を下げて階段を降りていく。綺麗に結われたポニーテールが左右に揺れていた。ああいうのを見ているのかと思う。
私は小声で「邪魔」と呟いた。志織ちゃんは、いい子だ。皮肉とかじゃなくて、本当に普通の子だから。ポニーテールだって控えめなアイメイクだって、彼女なりの努力だし、私と一緒なのだ。
だから泣きたくなる。こうやって毎日追いかけて、何かあるのだろうか。彼の目の中に、私はどれぐらいの存在感をもっているの。
「こら、起きろ」
頬に冷感が伝って、私は目を覚ました。こすると涙が指に付いていて、私は焦ってセーターで拭う。そんなことに気付いたのか気付かないのか、すっと顔の前に袋を差し出して、一緒にペットボトルも渡された。
「昼飯買ってきた。よくわかんないけど、置いていったし」
「……ありがと」
随分と時間が経ったように感じたものの、この様子だとまだ昼休み。彼は教室に戻るのかと思ったが、まだ座っている。踊場で座るの、初めて見たかもしれない。
「違くてさ、これ」
彼はカーディガンのポケットから、くるくるしたリボンを取り出した。クラッカーの残骸だ。
「祝おうとしたんだろ? サンキュな」
不意打ちだ。ずるい、私はそれだけで体温上昇するのに。陰の努力を人に見られたような、嬉しくも恥ずかしい気持ちに襲われる。私は顔を背けて紙袋を漁り、彼の側に置いた。ずっとタイミングを見計らっていたんだ。バレンタインの日のみたいに。
「はい。誕生日おめでとう」
「嘘、まだあるの?」
箱から取り出したレモンパイを頬張る彼を視界に入れて、私も貰ったパンを食べた。種類はごちゃ混ぜで、あんパンとクロワッサンと焼きそばパン。絶対食べきれないから、焼きそばパンをあげた。
偏頭痛は、いつの間にか治っていて、私がいかに簡単な女なのか自覚する。別に彼の不幸を願っている訳じゃないのに、どうしてだろう。彼女のいない世界が、とてつもなく欲しい。
時間は過ぎていく。この幸せに終わりが来る。積み重ねてきた思い出に、一発逆転なんて有り得るのだろうか。
帰り際の昇降口で、彼と彼女を見た。茶色のセーターを着た彼女は笑って、彼に最高の言葉をあげる。
「探してたんだ。誕生日おめでとう!」
その後すぐ、彼女は走って去っていった。走り方が可愛らしくて、その先にいるのは、背の高い男子。学年で知らない人はいない話だ。
手をゆっくりと下ろした彼の、その横顔を見ないフリをした。少し染まった頬と優しい目は、思い知らされるんだ。きっと同じ気持ち、だけど私は残酷かもしれない。さっきの私はどこへ消えたんだろう。
2番目なんて欲しくもない。ほら、また、偏頭痛が再発した。
081002