ボロいアパートの薄汚れたような空気が好きだった。太陽がすっかり昇ってから、私は目を覚ました。ここは2階で、窓から差した日が暖かい。隣りには誰も住んでいなくて、1階には大家さんと、バツイチのおじさんが住んでいるらしい。噂で聞いただけだ。

 お風呂の残り水を汲んで洗濯をしていると、電話が鳴った。駆け足して、それを取る。聞いたことのある女の人の声が「もしもし」と笑った。

「また電話しちゃって、ごめんなさい」
「ううん、平気よ」
「元気でやってる?」
「元気すぎるくらい」
「……そう。よかったわ」

 電話は一方的に切られてしまう。いや、私から切ったんだろうか。わからなかった。彼女と話すとき、私は少しだけ怯えていた。
 毎日電話がかかってくる。決まって十時の、お洗濯の時間。そんなことを繰り返し続けて、私は家事が上手くなって、少し身長も伸びた。

「また電話しちゃって、ごめんなさい」
「ううん」
「元気でやってる?」
「元気。なにも変わらない」
「……そう。よかったわ」
「待って」
「……どうしたの」
「もう電話してこないで」
「…………」
「ずっとって訳じゃないよ。たまにでいいってこと」
「…………」

 ずっと深くて暗いところにいたような、気がする。足掻くほど、空気が逃げていくようにゆっくりと落ちていく。どんなに叫んでも、自分の声は嘘みたいに小さくこもってしまう。
 ここは小さな世界。どんなに苦しくても、私はそこで漂うのが好きだった。ここが汚いのか綺麗なのかは知らない。私が汚いのか綺麗なのかも。

 こぽこぽという空気の音がして、水が揺れた。私の海に穴が開いた。顔が、体が、露わになっていく。ふやけてドロドロになった体は、待ち望んでいたように呼吸を始める。小さな水槽は空っぽになった。

 電話が鳴っている。忘れることはない、平和な午後のあなたからの電話。濡れたまま廊下を走る。

「ごめん、急に。なにしてた?」
「お洗濯してたの」
「そっか。今から帰るから、それだけ」
「ま、待って。お願い、切らないで――」

 電子音が二回鳴って、そのまま切り替わる。夢の時間を裂くような、きりきりした女の声。

「聞いてるの? もうやめてっていったのよ。いい加減にして」

 受話器が落ちた。私の握力はもうない。それよりも、体がなくなり始めていた。彼女が現実を呼んだから、私は蒸発してしまう。
 声が聴きたかった。あなたが落ちた海の底で、きっと私を呼んでるんだろうと思っていた。ずっとずっとずっとずっと。

 洗濯機がぐわんと揺れて、私は目を覚ました。いつから眠っていたんだろう。すでに洗濯は脱水段階に入っていた。外では小学生のはしゃぎ声がして、平和なあの頃を思い出す。思えば、今だって充分平和なはずなのに。
 脱衣所から出ると、廊下が水で濡れていた。足跡は電話の前まで続いている。私はそれを、まっさらなタオルで拭き取っていった。気づけば、電話の前。
 電話が鳴る。今日も、彼女が泣いているんだろう。あの日の私がまだ、あなたを待ってる。私を離さない。いつか、自然に消えてくれると思っていた。

「もしもし。またあなたなの?」

 よくわからないけれど、涙が出て笑っていた。私の溺れる癖は、まだ治っていないみたいだ。私は今だって、このアパートであなたを待っている。

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