早起きは三文の得と言うけれど、私の場合は損得の問題ではなく、朝が好きだから早起きする。夜は少し本を読んで、早めに夢の中へ入り込む。意識がない世界というのが、儚くて、安心できる場所だった。
 見覚えのある場所に来た。セピア色でぼやけた視界が、ゆっくりと鮮明になってくる。目の前には落書きされた黒板、右端には私の名前が書かれている。どうやら日直の仕事をしなければいけないらしい。いつも感じる焦燥感がしないのは、教室に誰もいないからだ。
 仕方なく日誌を開くと、扉が音を立てて開いた。

「……あ」

 立っているのは彼だった。一瞬にして体が動かなくなる。近付く距離に、逃げたいのに足が動かない。目が反らせない。

「ああ、ごめん。それ、さっき俺らで描いてたんだ。消しまーす」

 そう言って、いつもの笑顔が浮かんでいた。あの優等生スマイル。昔から彼の完璧な笑顔が嫌いだったけれど、今久しぶりに見た気がする。夢の中、私は普通のクラスメートらしい。現実の私の前ではもう、笑わないから。だからこそ、彼の完璧な笑顔に安心した。

「どうかした?」
「……いや、ありがとう」

 いっそこのまま、現実が続いたらいいのにと思った。私たちが普通のクラスメートとして接していたなら、こんなに穏やかな気持ちでいられたのだ。優等生で人気者の綺麗な笑顔の裏側に、あんな姿を見なければ。
 すらっとした背中を見ていた。とても魅力的で、悪魔とは別人みたいだ。ぼうっと、消えていく黒板を眺めていると、教室はまた、セピア色に廃れていった。意識が戻る瞬間、私は現実に絶望する。



「おはようございます」
「早いんだな」
「遅刻するのは嫌なので」

 珍しいことに、朝早く先生に出会した。先生は不真面目な訳ではないが、出勤は結構ギリギリらしい。ある意味、合理的で先生らしいけれど。

「僕は、待つのも待たせるのも嫌いなんだ」
「へえ、じゃあ珍しいですね」
「読みたいものがあった。君も図書室、入るか?」

 そう言ってポケットから鍵を取り出す。私は驚いたあと、ゆっくりと頷いた。夢にまで見たような朝で、やはり早起きは得だと思った。

 先生と同時に図書室を入ったのは初めてだ。先生は早速、堅い本を取り出しては蔵書部屋に入っていく。あれをどこまで頭に入れるつもりなんだろうか。考えていたら、私の存在を無視して蔵書部屋の扉を閉められ、焦って後を追った。
 どのくらい時間が経っただろう。私は、なぜか集中できないでいた。すぐ近くで先生の呼吸と頁を捲る音が聴こえている。それだけでも緊張するのに、登校してくる生徒のざわめきが外からし始めて、罪悪感に似た感情が生まれた。別に学校に忍び込んだ訳でも、先生と秘密で会ってる訳でもないのに。
 先生の方に目をやると、さっきまで眠そうだった瞳はしっかりと活字を捉えている。私は自分の心を読まれてしまいそうで、窓の外に視線をずらした。
 ここからは、正門から入ってくる生徒がよく見下ろせる。ぽつりぽつりと人が増えてきて、自転車もうまく人の間をすり抜け走っていく。入学式に咲いた桜はまだ綺麗で、初々しい一年生を飾っていた。
 人の流れが変わる。ああ、彼だ。

「……どうした」

 先生の声にびくりとする。さっきから手が動いてないことに気付いたんだろうか。私は、彼の名前を言い出す勇気がなくて、他のことを探した。

「桜が……綺麗だなあと」

 先生の表情が、よく見えない。鬱陶しい前髪の向こうに、冷たい瞳を見た。

「新しいクラスはどうなんだ」
「何も変わらないですよ。先生こそ、どうです」
「一年生は本当にうるさいだけだ」

 白い栞を挟んだまま、重い本は蔵書部屋の棚に置かれた。そうやって、この部屋はできている。先生が読んだり読まなかったりした本が積み重なって、私がたまに並べ替える。
 今年度になって変わったことと言えば、先生が1年生のクラスの副担任を持ったことだ。先生の方は嬉しいのか面倒なのか、よくわからない。私は1年生が羨ましかった。
 私はというと、特にない。彼とまた同じクラスになってしまったことが、私の憂鬱だ。
 窓から生徒たちを見下ろす。数人の友人たちは、まだ彼を囲んでいた。にこり。完璧なスマイルを見せて、ようやく人々は動き出した。私は、今日見たばかりの夢を思い出していた。何も考えずに、ドアに手をかける。

「……時間なので、失礼します」
「さようなら」

 どうしてあんな夢を見たんだろう。どうして彼は笑うんだろう。頭の中の記憶が混ざり合って、情報がつながらない。悪い人じゃないって知ってたんだ、はじめから。彼は弱くて強い人。
 私は、彼と他人になりたかった。

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