ついてない、と思うしかなかった。六時間目の終わり頃になっても雨脚が弱まらない窓の外を見て薄々、というか思いっきり感付いていたけれど、いざ実際にバケツをひっくり返したようなとはこのことかというくらいの土砂降りを目の前にすると、風船に穴が開いたように気持ちがシュルシュルと沈んでいく。溜息をつく自分を思い浮かべて、雨に濡れる覚悟をする。止むのを待つという選択肢はなかった。インターネットでお天気情報を検索したというクラスメートの会話を聞いたところによるとこの雨は夜まで止まないらしいので、学校に留まったとて待ちぼうけを食らうだけなのだ。朝はとてもよく晴れていたから雨傘なんて持ってこなかったし、折り畳み傘を鞄に潜めておくような用意周到さなんて持ち合わせていないし、仲の良い友達は通学手段が異なるからして帰宅方向も別であるし、私にできるのは精々携帯が濡れないようにジャージで何重にも包んでおくことくらいなのである。

駅が異様に遠い。普通に歩けば十数分で辿り着くはずなのに、やっと中間地点のコンビニが見えてきたところだ。雨水をしっかり吸い込んだ制服がいつもの何倍もの重さになっているから、時間を長く感じてしまうのかもしれない。コンビニのわずかな軒下では、数人が煙草を吸っているようだった。雨でぼんやりとする視界に、ぷかぷかと赤く燃える点が揺れて見えた。

ふう、と大きく息を吐くと、口が開いた拍子に水滴が唇を伝って咥内に入り込んだ。頬に張り付く髪の毛を指で払いながら、なんだか惨めな気分だ、と思った。他の生徒は準備がしてあったのか、迎えに来てくれる人がいたのか、自分と同じようにずぶ濡れになっている姿は一人も見かけていない。今日はついていない日なんだ、と何度目になるのか、自分に言い聞かせて重い足を進めた。

コンビニを通り過ぎて十数歩ほど歩いた頃、バシャバシャと水飛沫の音が聞こえてきた。この大雨の中歩くだけでも億劫なのに、走るなんて元気があるなあと他人ごとのように思っていると、その足音は私のすぐ近くで止まり、私の周辺だけ雨が止んだ。誰かが傘を差してくれている。頭に何人か顔を思い浮かべながら振り返るが、そこにいたのはその誰でもなく、見たことのない人だった。歳は二十…いくつぐらいだろう。私の目算は大体当てにならないので二十代だろうということしかわからない。何より目に飛び込んできたのはそのずば抜けた容姿だった。パッと見ただけでわかる整った顔に、色素の薄い目。初めて見る銀髪は、日本人に似合いにくい色であるだろうに、まるでそうあるのが自然というように彼に溶け込んでいる。

「大分濡れとるな、大丈夫か?」

「あ、はい」

「安モンのビニール傘でよかったら使ってくれ」

差していた傘を持たされると、身長差でお兄さんは雨の中に放り出され、見る見る内にグレーのスーツが変色していく。慌てて手を伸ばして二人の上に傘を上げた。

「え、でもお兄さんは…」

「車があるけえ大丈夫じゃ。何だったら乗っていくか?そのままじゃ風邪引きそうじゃの。家まで送ってっちゃるよ」

どこのものだかわからない方言を使うお兄さんは心配そうに私の全身に視線をやってコンビニを振り返った。どうしよう、と少し悩む。もう歩くのも面倒な私にとって願ってもない申し出だ。でも脳裏に浮かんだのは「知らない人についていってはいけません」と小学生時代から学校で何度も言い聞かされた言葉。どう見ても女の人に困らなそうなお兄さんは親切で言ってくれたのだろうし、ずぶ濡れの私は可哀相に見えこそすれ可愛くはないだろうけれど、女子高生というのは制服を着ていればブランドものなのだといつぞやの風俗店摘発に関するニュースで言っていた。世の中には物好きな人もいることだし、着いて行ってしまえば自己責任になってしまう。頭を振ってお兄さんを見上げた。

「駅からほんの二駅だから大丈夫です、ありがとうございます」

「そうか。じゃあ気を付けて帰ってな」

お兄さんは小さく笑って傘から出ると、コンビニの方へ走って行った。後姿を見送りながら、彼が傘を差し出してくれたのと反対の手に煙草を挟んでいたことに気付いた。きっと、さっき見た軒下で煙草を吸っていた人達の中に彼もいたのだろう。湿気させてしまった煙草を申し訳なく思う。やはり、悪い人じゃなかったのかもしれない。稀に見る格好良い人だったし、もしも数パーセントほど下心があったとしても、社会勉強がてらついていってみてもよかったかも、なんて思った。

今日がついてない日だなんていうのは撤回、優しいお兄さんに傘をもらったラッキーな日だ。



ついているついていないの問題ではなくて私の注意力が足りていないのではないのだろうかと気付いたのは、一ヶ月前の土砂降りを思い出すような豪雨の日の放課後だった。あれから反省して折り畳み傘を持ち歩くようになったのに、一昨日鞄の中で砕けたスナック菓子を掃除する際に鞄から出したあとで入れ直すのを忘れたらしく、いくら探しても出てこない。よくよく思い返してみると、部屋の隅っこに放ってあったような気がする。持ち歩くのは重くて荷物になることだし学校のロッカーに置いておけばよかったのだと、今更思っても遅い。

ブラウスがべっとりと肌に吸い付いている。一週間前に衣替えをしてブレザーがないので、前ほど重みはないけれどその分雨水が密着して身体を冷やしていく。カーディガンは携帯を包むために使ってしまったので、上に着れるものはないのだ。今日は体育がないからジャージを持っていなかった。

駅まで歩く途中、お兄さんが頭に浮かんでコンビニを通るときそっと目をやった。この年頃の女の子は年上に憧れるものだから仕方のないことだ。それもとびきり格好良いひとであったから。けれど軒下にいたのは、黄色くてはちみつが大好きなくまさんよろしくお腹がぽっこりと出ているおじさんだけだった。少しがっくりしながら、そんなもんだよな、とも思う。少女漫画と現実は遠いもので、私はお兄さんに傘をもらえただけでも儲けものだったのだ。この間声を掛けてくれたのは、私がよほど悲惨な見た目をしていたからだろう。実際あの日は、駅のホームや電車内で、とても視線を感じて居た堪れなかった。

スッと視線を足元に戻してぐちゃぐちゃのローファーを前に前に動かす。水を含んで動きが悪い。踏み込む度に指の間に水が流れて、ひどく不快に感じた。

赤信号に引っかかって横断歩道の前で待っていると、停車した黒い車が横目に見えた。助手席側の窓ガラスが下がっていくのを不審に思ってチラリと目線を動かす。

「やっぱり、この間の。まあーたそんなずぶ濡れになって」

そう言って顔を覗かせたのは銀髪のお兄さんで、私はびっくりして「えっ!」とベタな反応をした。お兄さんは喉を鳴らして笑い、「送っちゃるから乗ってきんしゃい」と助手席を軽く叩いた。

「え、でもびしょ濡れだから車が…」

「気にせんて。それに、傘貸してやろうにも今持っとらんからの」

お兄さんは軽く言ったが、傘がないのは私がもらってしまったせいだろう。迷っていると横に見える歩行者用信号機が点滅しだした。

「ほれ、信号変わっちまう。どうする?」

はちみつ色の目に見つめられて、頷いてしまったのは好奇心だろうか、それとも。


 

お兄さんに道案内をしながら、車は順調に家へ近付いている。やっぱり警戒しすぎていたんだなあと実感しつつ、段々とスカートから水分が移っているだろう座席に申し訳なくなった。貸してもらったタオルのおかげで髪の毛から垂れる水滴はほとんどなくなったが、制服はどうしようもない。

「この間は風邪引かんかったか?」

「あ、はいおかげさまで。傘本当にありがとうございました。今日も、すみません、座席…」

「はは、だから気にせんでええて。お前さんもついてないのう、こんなに降られて。傘に入れてくれる友達とか男とかいないんか」

「友達は方向が違うんです。残念ながら彼氏もいなくって。この間から折り畳み傘持ち歩く様にしたんですけど、たまたま家に置いてきちゃって…」

「うっかりさんやの」

笑い混じりに言うお兄さんの低い声が腰に響いた。ぞくっとしたのは寒気のせいではない。イケメンは声まで格好良いのか…と並んでいる自分が少し恥ずかしくなる。お兄さんはグレーのスーツに黒いシャツ、ワインレッドのネクタイを合わせていて、雑誌に載っていそうなぐらい文句なしに格好良い。銀なんていう派手な髪色だけどしっかり締められたネクタイがホストっぽさを抑えている。

「…ん?何か鳴っとらん?携帯は?」

「え…あ!」

言われて耳をすますと、確かにほんの小さく、車に掛かっている音楽に混じって着信音が聞こえた。慌ててスクバの中でカーディガンにぐるぐる巻きにされた携帯を取り出す。
「お母さん 着信」と表示された画面とお兄さんを交互に見ると、お兄さんが音楽の音を下げてくれたのでお礼を言って通話ボタンを押した。

「もしもし?」

「あ、もしもしなまえ?おばあちゃんがぎっくり腰になったって電話来たからお母さん今おばあちゃん家向かってるのよ。夕飯準備できてないんだけど、一人で何か食べれる?」

「え、うん、大丈夫だけど…おばあちゃん大丈夫なの?」

「ええ、ぎっくり腰以外はピンピンしてるらしいわ」

「そっか、ならいいんだけど。何かあったら電話してね」

「あんたこそね。ちゃんと戸締りしなさいよ…あ、待って、そういえば鍵閉めてきたけどあんた持ってたっけ?」

「えっ…鍵……ないよ?!お母さんが合鍵なくしたっていって私のあげたんじゃん」

「そうだっけ?あー…帰るの遅くなりそうなのよねえ。お父さんも残業だし…。友達の家寄せてもらえない?」

「うううん…わかった、頼んでみる…」

「ごめんね、無理そうだったら電話しなさい、帰るから」

「はーい…」

通話が切れたのを確認して、自分も終了ボタンをタップする。お兄さんがチラリとこちらに視線を寄こした。

「家族に何かあったんか?行き先変えた方がええか」

「やっ、ただのぎっくり腰らしいんで大丈夫です。あ、でも、そっか、行き先…」

お母さんもお父さんも、帰ってくるのは早くとも日付を越えてからだろう。高校の友達は遊ぶとき現地集合しているから家の場所なんてわからないし、地元の友達は大家族か厳しい家柄かで…頼めない。前もってならまだしも、こんな急になんて。かと言っておばあちゃんの家は車で40分くらいかかる。

「えっと…このまま家までお願いします」

「大丈夫なんか?さっき鍵がどうとか言っとったが…」

「はい、お母さんが持ってっちゃったみたいなんですけど、夕飯の時間には帰ってこれるらしいので、それまで近所の友達の家にお邪魔します」

「…そか。じゃあまた家まで道案内頼むな。何となくで進んでたんじゃが合ってるかの」

「合ってます、まだ暫くまっすぐで…あ、あの三つ目の信号を…」


 


「へっぷしょい!」

盛大にくしゃみをぶちまけた。周りに誰もいないので女の子らしくなるように気を付ける必要はない。現在、自宅の玄関前にて雨宿り中。お兄さんに送り届けてもらってお礼を言ってお見送りしてから一時間ほど経った。時計は六時を回ったところだ。お兄さんにああ言ったのはもちろん嘘なので、ひたすら家族の帰りを待っている。間違いなく明日は風邪で休みだな、と思う。

ピシャンと水音を立てて車が時折家の前を通っていく。スクールバッグに腰かけたままボーっと眺めているとたまに運転手と目が合って、変な子を見るような目で見られる。違うんです、決して変人ではなくて、鍵がないんです。

暫くするとまたヘッドライトが道路を照らした。今度は目が合うか、合わないか。車体は何色だろう。無難に白を予想して待っていると、現れた車は黒だった。しかし、あーあ外れた、なんて思う暇もなく、「しまった」という言葉が頭に浮かんだ。目が合ったのは、はちみつ色の…。

ハザードランプを点灯させて車がゆっくり止まる。雨に濡れながら降りてきた人は私の前で屈んだ。

「やーっぱり嘘じゃったな」

「や、やっぱりって?」

「なんとなくな。得意だからわかるんよ。それでもどうにかするならえーかと思って何も言わんかったが…会社に寄ってから通ってみたら、まさか俺が送ったままとはな」

「う、す、すみません…」

「ええよ。風邪でも引かれたら後味悪いからの。で、お前さん、本当はあと何時間待っとくつもりだったんじゃ?」

「ろく、じかん、くらい…」

「はあ?全く…」

よっこらせ、と立ち上がったお兄さんは私の手を掴んで引っ張り上げた。

「こんなに冷たくなりよって」

「すみません…」

「お前さんさえ良かったら、家で雨宿りしてくか」

どうする?とあの目で射抜かれる。お兄さんの家で、雨宿り。下手すれば一晩。家まで送ってもらうのとはわけが違う。これこそ本当に、自己責任だ。視界の隅でハザードランプが点灯する。ぽわ、ぽわ、ぽわ。お兄さんが私の返事を待っている。ぽわ、ぽわ、ぽわ。どうする?なんて…本当は、決まっている。多分答えは、最初からひとつ。


(on a rainy day/140811)

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