※日記ログ

本日は二月の第二木曜日。ただの平日、ではありません。女の子の頑張る日です。そうですバレンタインデーです。

とは言っても、わたしはもう、女の子って誰にでも呼ばれるような歳ではなくなったし、恋人がいるから告白計画なんてものはないし、その恋人とは同棲云年目であるし、前日も翌日も仕事だし。コンビニかスーパーで既製品を見繕って、夕飯の後に渡せばそれでいいと思っていた。のだけれど。デパートのバレンタイン特集コーナーを映していたテレビを見た彼が、「俺、なまえの作ったガトーショコラ、久しぶりに食べたいなあ。ねえ、お願い」なんて言うもんだから。そういえば去年も既製品で済ませたし、その前は確か手抜きのカップケーキだったし。久しぶりに気合入れてやるか、と思い直して、埃を被っていたお菓子作りの本を引っ張り出した。ついでに料理もちょっと頑張ろうといつもより手を掛けてみたりして。

帰ってきたらびっくりするだろうか、喜んでくれるだろうか。美味しそうに湯気の立つ料理たちを見ながら、わくわくして帰りを待っていた。………数時間前までは。待てども待てどもただいま、の声が聞こえない。着信は疎か、メールすら来ない。メール問い合わせをするのも飽きて携帯は暫く前に放り投げた。

働いてるんだからハプニングが起こることも、帰りが遅くなることがあるのも、理解している。私も働いてるしね、わかりますよちゃんと。でも連絡くらいしろっつー話ですよ。食べたいって言ったの、そっちじゃん。だから今日頑張ってノルマ早く終わらせて、定時より先に仕事上がったっていうのに。こうなるんだったら、何もしなきゃよかった。五円チョコでよかったんだ、あいつなんか。冷め切って乾燥してしまった料理が目に入ると虚しくなる。

あと数分で第二金曜日になるなあ、とぼやけた視界で確認したところで、やっと、やっと、玄関から物音がした。耳慣れたガチャリという音。それから走ってこっちにやってくる足音。今更急いだって遅いっつーの。顔を見たらまず一発ビンタしてやろうと決めていた。手を握って開いて準備運動をする。よし、そろそろだ。

「この馬「ごめん、遅くなってごめん…!」…?!!」

どんな表情してるのか確かめる間もなくガバッと抱きつかれた。馬鹿野郎、が言えなかったし腕を振り上げることもできなかった。頬に触れる髪の毛は夜のように冷たいのに、伝わってくる体温はお風呂上りのようにあったかい。ていうか若干しっとりとしている。冬なのに何で汗かいてんのこの人。

「おいこら離せバカこじろー」
「だって、ごめん、ほんとごめん」
「…納得できる理由があるんだろうな」
「明日取引先の人に見せるはずのプレゼンのデータがなくなって、資料も見つかんなくて、バタバタしてたら時間遅くて、電話かけようとしたら充電切れてた」
「…ばかだろ」
「うん、ばかだよ、ごめんな」
「なくしたのだってどうせこじろーじゃなくって、なくなったから手伝って言われたんでしょ」
「…なまえエスパー?」
「こじろうがお人好しなんだよばかやろう」
「はい、すみません…」
「こじろうのためにおかし作ったのに」
「うん」
「料理も、がんばったのに」
「うん」
「顔見たら殴ろうと思ったのに、ぎゅってされるし」
「…うん」
「もう第二金曜日になったんですよわかってんですか」
「うん、ごめん」
「…こじろうが喜ぶかなって、がんばったのに、ばかみたいじゃんか」
「…なまえ」
「なにばかじろう」
「顔上げて」
「やだばかじろう」
「ねえ、お願い」

お前おねだりの度にその言葉使いやがってあざといんだよ爽やかキャラのくせに。かわいいんだよばか。無視していると繰り返し催促されたから、仕方なく、緩められた腕の中で虎次郎の顔を見上げる。

「ああ、やっぱり目が赤い」
「…お前のせいだよ」
「わかってる、ごめんね」

前髪を優しく掻き上げられて、反射的に目を閉じると柔らかい唇が瞼に落ちてきた。ちゅ、と小さいリップ音を立てながら左目、右目を通って唇に辿り着く。

「俺も、楽しみにしてたんだ」
「…?」
「お菓子の本出してくれてたし、この間の買い物やけに荷物多かったし。嬉しくて、早く帰って来ようって思ってたんだ」

バレバレだったのは、まあいいとして。すまなそうに眉尻を下げる表情が泣き出す寸前みたいだったから。ビンタしたかった気持ちも虚しさもシュルシュルと小さくなって、段々と食欲が戻ってきた。

「もういいよ」
「でも、ごめん、」
「いいよ、わたしだけじゃなかったんでしょ、楽しみにしてたの」
「そりゃあもちろん」
「じゃあもういい、喜ぶ顔見たかったんだから、もうおわり。ただし次は許さない。電池切れる前に電話してください」
「はい、肝に銘じます」

虎次郎が自分の胸に手を置いて、至極真剣にそう言うから思わず笑いが溢れた。ばかだ、虎次郎。

「よし、じゃあ、ご飯食べよ」
「おいしそうだな」
「かなり水分飛んじゃったからパサパサだよ多分」
「なまえが作ってくれたんだからおいしいよ」
「…そうですか。虎次郎が温めてね」
「了解。あとでなまえのことも温めるね」
「調子乗んな」

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